第218回 ありがとうという言葉が存在しない民族


ロボマインド・プロジェクト、第218弾!
こんにちは、ロボマインドの田方です。

国や言語が違っても、世界共通に存在する単語や概念ってありますよね。
たとえば、「ありがとう」とかです。
感謝の言葉って、人間社会を営むうえで、必要不可欠です。
それから、「こんにちは」や「さようなら」って挨拶の言葉。
こんな言葉が存在しないと、社会は成立しないですよね。

ところが、「ありがとう」や「こんにちは」って言葉が存在しない民族がいたんです。
第139回、140回でとりあげたアマゾン奥地に住む先住民、ピダハンです。
ピダハンの一番の特徴は、今、「ここ」だけで生きてることです。
過去を悔んだり、将来を憂いたりすることがないんです。
世界一、幸せな民族とも言われています。

僕がピダハンに魅かれるのは、そういった生き方とか、性格とかじゃないです。
僕の関心は、人は、世界をどう認識してるってことです。
客観的な世界じゃなくて、主観でどう認識してるかです。

今、目の前に部屋が見えます。
見えてないですけど、壁の向こうに、どこまでも世界が広がってるって感じてます。
これが、主観で感じてる世界です。
空間だけじゃなくて時間もです。
過去から現在、未来へと時間は流れますよね。
遥か昔から、未来のかなたまで、どこまでも時間はながれてるって感じてます。
そんな、どこまでも続く、空間、時間の中で生きてるわけです。

でも、よく考えたら、そんなこと、実際に経験して、確かめたわけじゃないですよね。
あくまでも、頭の中で作り上げてる世界です。
ということは、そうでない世界を作り上げることもできますよね。
たとえば、今、見えてるものだけしか存在しない空間とか。
自分が直接経験した範囲しか、時間は存在しないとか。
そして、そんな世界で生きてるのがピダハンなんです。
たぶん、ピダハンの感じてる世界って、僕らが感じてるのとは、全然違う世界なんだと思うんですよ。
認識する世界が違うから、世界を把握する概念とか、言葉も全然違ってくるんやと思います。
「ありがとう」も「こんにちは」も必要ないんです。

これが今回のテーマです。
ありがとうという言葉が存在しない民族。
それでは、始めましょう!

僕が解明しようとしてるのは、客観的な世界じゃなくて、主観で感じる世界です。
脳が感じる世界です。
つまり、主観が感じる世界は脳の構造に依存するわけです。
たとえば、人は、「昨日、こんなことがあったよ」とかって思い出すことができます。
思い出のような記憶のことを、エピソード記憶っていいます。

じつは、人間以外の動物は、エピソード記憶ができないんです。
そして、エピソード記憶が出来るから、時間の流れを感じれるわけです。
この辺りのことは、第24回、「時間は存在しない」などで語ってるので、良かったら見てください。

さて、人は、目で見た世界を、頭の中に仮想世界として構築します。
意識は、その仮想世界を介して現実世界を認識します。
これを意識の仮想世界仮説といいます。
詳しくは、この本に書いてますので、よかったら読んでください。

エピソード記憶というのは、認識した仮想世界を、保存する仕組みです。
保存する場所は、脳の中の海馬といわれる領域です。
保存した場面を、仮想世界で再生することで思い出すわけです。
この時使う仮想世界は、現実を認識するのとは別の仮想世界です。
過去や、未来を想像するときに使う想像仮想世界です。
想像仮想世界に海馬に保存されていた過去の出来事を展開して再生することで、過去の出来事を思い出せるわけです。

海馬には、おそらく過去の場面を順番に保存する仕組みがあるんです。
これが、何か、わかりますか。
順番に保存する仕組みが、時間なんです。
もっと正確に言うと、場面を時間順に保存するデータ構造があるわけです。
時間ってのは、このデータ構造、その物なんです。

さて、ピダハンの脳にも海馬があります。
同じ脳の構造、データ構造を持っています。
だから、ピダハンも、過去も、現在も、未来も理解することができます。
ただ、何が違うかって言うと、データ構造の利用の仕方が違うんです。

ピダハンは、今、ここだけで生きてるっていいましたよね。
つまりね、今、ここと、それ以外とを分けて管理してるんだと思います。
僕らは、無限に広がる世界、無限に流れる時間のなかにいますよね。
たぶん、ピダハンは、そんな風に感じてないんですよ。
世界や、時間の流れが、まず、あるって思ってないんです。
先にあるのは、自分なんですよ。

時間に関して考えますよ。
ピダハンは、今って時間を中心に考えます。
時間の長さの最大は、自分または自分と直接関わってる人が経験したことです。
ピダハンの本の作者は、ピダハンと何十年も暮らしてました。
でも、ピダハンが、亡くなった人の思い出を語ることは、ほとんど聞いたことがないって書いてます。

死んでしまうと、自分との直接の関わりでなくなります。
そうなると、その人のことを思い出しにくくなるみたいなんです。

僕らが、思い出せるのは、海馬の中に思い出が格納されてて、それを引っ張り出して再生できるからですよね。
データ構造と、それを処理する仕組みがあるから、思い出せるわけです。

データの処理って、頭の中で動いてるプログラムがします。
そのプログラムは、学習や環境によって習得したものです。
じゃぁ、別の環境で育てば、別のプログラムになってもおかしくないですよね。
たとえば、自分と関わってた人が亡くなると、その人に関する記憶を呼び出せなくなるってプログラムとか。
それが、ピダハンの持つプログラムです。

そもそも、主観的な時間って、頭の中に存在します。
だから、人によって、いろんな時間の感じ方があってもいいわけです。

感じ方っていうのは、頭の中のプログラムで決まるわけです。
頭の中のプログラムを通して感じた世界、これが主観です。
そして、主観で感じた世界を表現したのが言葉です。

はい、言葉が出てきました。
こっからは、言語について考えていきます。
ピダハンの本の作者は、言語学者でもあるので、言語についての考察もいろいろしてるんですよ。

ピダハンの特徴は、自分、または相手が経験したことを中心に世界を認識することです。
これ、言語構造にもちゃんと反映されてるんですよ。
どういうことかと言うと、ピダハン語は、今を起点とした出来事しか話せないんです。

これ、ちょっと、ややこしいんですけど、ゆっくり解説しますよ。
たとえば、「電話がかかってきたとき、食べ終わっていた」って文が作れないんですよ。
「電話がかかってきた」は、今を起点とした過去の出来事です。
だから、これはOKなんです。
でも、「食べ終わっていた」って出来事が起点とするのは、「電話がかかってきたとき」です。
つまり、起点が今じゃないんですよ。
だから、ピダハン語では、「電話がかかってきたとき、食べ終わっていた」って文はNGなんです。

ちょっと、よくわからないですよね。
まず、「電話がかかってきたとき、食べ終わってた」って文を作れないってこと自体が、よく、わからないですよね。
でも、それは、僕らは、こう言う構造の文を持てる仕組みが頭にあるからです。
出来事を認識するとき、今を起点にしなくても認識できからです。
だから、「電話がかかってきたとき、食べ終わってた」って文を理解できるんです。

もっと言えば、僕らは、仮想世界で出来事を再生するとき、いつから開始するかを自由に設定できるんです。
でも、ピダハンの持ってる出来事再生プログラムは、スタートは今に直接関連してないと再生できないんです。
そうでないと、エラーがでるんですよ。
そんなプログラムだから、「電話がかかってきたとき、食べ終わってた」って文を作ることも、理解することもできないんです。

さっき、ピダハンは、亡くなった人の思い出を語らないっていいましたよね。
これも、このプログラムで説明できるんです。
ピダハンの出来事再生プログラムは、自分か、自分と直接関わってる人を起点としてしか世界を認識できないわけです。
だから、人が亡くなって、自分との関連が途切れると、その人の思い出を再生できなくなるわけです。

わかってきましたか?
頭の中のプログラムと、それを使って世界を認識すること、それと、言語。
この三つは、密接に関わってるんですよ。

この話、まだ続きます。
今までの話は、自分とか、今を中心に世界を認識するって話でした。
つぎは、自分についてです。

僕らは、自分って存在がずっと続いてるって思ってますよね。
どこで生まれれて、小学校はどこで、中学はどこでって。
これは、変わることないですよね。
何、当たり前のこといってんのって思ってますよね。
でも、どこで生まれて、どこの学校に行ってって、それ、どうやって確認するんです?
絶対確実なことって、目の前で起こってることだけです。
過去に起こった出来事が存在するのは、頭の中だけですよ。
どこで生まれて、親は誰で、どこの学校卒業してって、そんなのただのデータです。

その人の過去って、ただのデータなんです。
消去すれば消えるものです。
書き換えたら別人になります。

そんな、ムチャなって思いますよね。
でも、それをやってるのがピダハンなんです。
それを示すエピソードを、作者はいくつか紹介してます。

たとえば、ピダハンは、何度も名前を変えるそうです。
あるとき、作者が、うっかり前の名前で呼んだそうです。
そしたら、返事もしないそうなんです。
何度も呼ぶと、「もう、その男はいない。今、いるのは○○だ」って言われたそうです。
どうも、ピダハンは、名前が変わると、全く別の人間になるようなんです。

それから、ピダハンは、誰でも、精霊が乗り移るそうなんです。
ほんで、夜中に、精霊になって、劇のようなものをするそうなんです。
作者は、みんなと一緒に、その劇を見たそうなんですけど、見てる人は、完全に精霊と思って見てるそうなんです。
誰かが、精霊を演じてるとは、思ってないようなんです。

翌朝、作者が、精霊が乗り移った人に、昨日は面白かったよって言ったら、その人に、「昨日はその場所にいなかった」って言われたそうなんですよ。
その場所にいたのは、その人でなくて、あくまでも精霊なんです。

何が言いたいかと言うと、ピダハンは、自分っていう、確固とした存在が薄いみたいなんです。
簡単に、別人格に入れ替われるようなんです。
社会も、それを許容してるわけです。

僕らは、生まれてから死ぬまで、変わらぬ自分って思って生きてますよね。
でも、そんなの、幻想なんじゃないかなって思うんですよ。
自分は変わることはないって、そういうプログラムで世界を認識してるだけないんですよ。

さっき、ピダハンは、今を起点にした出来事しか認識できないプログラムを使ってるって言いましたよね。
これを聞いたとき、なんて、不自由なプログラムって思いましたよね。

それと一緒です。
自分っていうのは、生まれてから死ぬまで絶対変われないって思うのは、そういうプログラムを使ってるからだけですよ。
ピダハンが聞いたら、なんて、不自由なプログラムを使ってるんだって思うと思います。

それでは、最初の話に戻ります。
ピダハン語には、「ありがとう」がないって話です。
これは、「ありがとう」って言葉がないだけで、ピダハンも、感謝の気持ちはあります。
それは、お礼の品物や手伝いといった行動で示されます。
感謝の気持ちは行動で示すもので、実体のない言葉は必要ないと思ってるんでしょう。

「ありがとう」とか「こんにちは」って、中身があるわけじゃないです。
何のためにあるかと言うと、人間関係を維持したり、相手を認めてるってことを示すためです。
そう言う言葉は、たぶん、一生変わらない自分ってものを前提にしてる社会だから必要なんですよ。
上下関係とか、親族関係とか、複雑になればなるほど、そういった言葉が発達するんやと思います。
変わらない自分ってのがあるわけでなく、さらに、目の前の今しか、考えないピダハンにとっては、関係性を維持する言葉も必要ないのかもしれません。

さて、どうなんでしょうねぇ。
ただ、頭の中のプログラムの違いで、社会や言葉が全然変わってしまうってことは確かなようです。
今、見て、感じてる世界って、頭の中のプログラムを変えれば、簡単に変わるってことだけは、覚えておいた方がいいと思います。

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