ロボマインド・プロジェクト、第241弾!
こんにちは、ロボマインドの田方です。
最近、よく取り上げてるのが「脳を120%解放した女」シリーズです。
これは、脳卒中で左脳が停止した脳科学者ジル・ボルト・テイラーの話です。
彼女は、左脳が停止して、右脳で感じる世界を体験しました。
左脳が停止すると、まず、あらゆる思考、雑念が消えて、頭のなかが空っぽになったそうです。
脳のおしゃべりが消えて、完全な静寂が訪れたと言ってます。
その後、自分の体の境界が消えていくのを感じたそうです。
自分の体が世界に溶け出して、世界と一体となる感覚を得たそうです。
このとき、この上ない幸福を感じたそうです。
こんな話、他でも聞いたことあります。
瞑想とか、座禅のベテランも、同じような感覚になるそうです。
これは、仏教でいうところの悟りですよね。
釈迦は、菩提樹の下で悟りを開いたといいますけど、仏教では、この悟りの境地を目指してるわけです。
悟りの境地に入ると、自分と世界との区別が無くなって世界との一体感を感じるようです。
右脳が見せる世界が仏教の悟りなら、左脳が見せる世界は、どういったものでしょう?
それは、世界と自分が区別される世界です。
自分だけでなく、人や物、あらゆる物が区別されて分けられる世界です。
区別された対象を認識し、比較したり評価したりする世界です。
それは、論理的で言葉で説明可能な世界です。
これは、僕らが、普段、感じてる世界でもあります。
仏教の悟りと対比するなら、西洋キリスト教の世界観とも言えます。
新約聖書のヨハネの福音書の冒頭は、こうあります。
「初めに言葉ありき」
最初にあったのは、言葉です。
宇宙じゃなくて、言葉ですよ。
これ、考えたらすごい世界観です。
どういうことかというと、この世界観は、頭の中も含めた世界観になってるんです。
普通、宇宙全体って言うと、全てを含んでると思いますけど、でも、それって、頭の外にあることだけなんですよ。
言葉って、頭の中、脳の中にあるものですよね。
最初に、言葉を理解できる脳があるわけです。
そこから出発して、世界を読み解こうとするのがキリスト教の世界観っていえそうです。
この世界観は、脳の中でも左脳が見る世界です。
同じ脳が見る世界でも、右脳が見る世界もあるわけです。
それを目指してるのが仏教です。
こうしてみると、この世界って、左脳と右脳、キリスト教と仏教、西洋と東洋って整理して考えれそうですよね。
これが今回のテーマです。
キリスト教と仏教を
脳科学で解明せよ!
それでは、始めましょう!
僕は、未来予測の記事とか、好きでよく読むんですよ。
火星に人類が住むようになるとか、素粒子が解明されて宇宙の謎が全て解決するとか。
科学技術って、ワクワクします。
でも、一つ不満なのは、科学技術が対象としてるのは、この現実世界、物理世界だけなんですよ。
いや、そんなの当たり前って思いますよね。
でも、科学が生まれたのは17世紀ですよ。
それまでは、科学はもっと大きな世界の、ほんの一部だったわけです。
それが、今では、世界の全ては、目に見えて、客観的に観測できる物理世界だって、誰もが思ってるわけです。
でも、昔はそうじゃなかったわけです。
むしろ、目に見えないところにこそ、真の世界があると考えていたんです。
その点では、キリスト教も仏教も同じです。
そこで、まずは、キリスト教の世界観を、脳科学から読み解こうと思います。
それは、左脳が創り出した世界観です。
脳は、生まれる前は、何らかの世界観を持ってたわけじゃないです。
お母さんのお腹にいるときは、完璧な世界にいました。
それが、この物理世界に生れ落ちると、そこは完璧じゃなかったんです。
違和感を感じたわけです。
その完璧じゃない世界を認識するために作り出したのが世界認識システムです。
世界認識システムとは、仮想世界を使った認識システムです。
まず、目で見た世界を頭のなかで仮想世界として構築します。
意識は、この仮想世界を介して現実世界を認識します。
これを、意識の仮想世界仮説と言います。
詳しくは、この本に書いてますので、良かったら読んでください。
さて、現実世界は三次元なので、三次元の仮想世界を創ります。
そのために、まずは、何もない三次元空間を用意します。
そこに、現実世界に存在するあらゆる物を配置して仮想世界を組み立てて行きます。
さて、これを階層構造で考えてみます。
まず、一番下にあるのが現実の物理世界です。
これを物理レイヤーとします。
物理世界をそっくり写し取った仮想世界を仮想レイヤーとします。
ヨハネの福音書の話は、こっからです。
仮想世界には、あらゆる物が配置されます。
これをオブジェクトと呼ぶことにします。
机オブジェクトとか、リンゴオブジェクトとか、人間オブジェクトとかです。
さて、「リンゴ」っていうのは、リンゴオブジェクトの名前です。
あらゆるオブジェクトは、名前が付けられます。
名前っていうのは、一種の記号といってもいいです。
それでは、オブジェクトを記号で表した世界を、仮想世界のもう一つ上の階層として定義します。
それを、記号レイヤーと呼ぶことにします。
さて、意識は、記号レイヤーの記号を自由に操作できます。
たとえば、「リンゴがある」と記号レイヤーで操作すれば、仮想レイヤーにリンゴオブジェクトを生成します。
リンゴオブジェクトが生成されたことが、「リンゴがある」の意味というわけです。
「リンゴを食べる」と記号レイヤーを操作すれば、仮想レイヤーに、人間オブジェクトとリンゴオブジェクトを生成して、人間オブジェクトがリンゴオブジェクトを食べてる状況を生成します。
これが、「リンゴを食べる」の意味です。
そして、これが、想像するってことです。
「リンゴがある」とか「リンゴを食べる」とかって、これ、言葉ですよね。
つまり、記号レイヤーとは、言葉のことです。
記号レイヤーを操作することで、人は、いろんな出来事を想像できます。
人が想像できる出来事のうち、そのうちの一部が、実際の現実世界で実現されるわけです。
「リンゴを食べる」とこを想像したからといって、現実世界で、実際にリンゴを食べれるわけじゃありません。
現実世界で起ってる出来事は、人間が想像できることの一部というわけです。
さて、世界の全体像が見えてきましたか?
現実の物理世界で起ってるのは、想像できることの一部です。
そして、想像できることって、記号レイヤーで操作できることです。
ねぇ、物理世界って、世界全体のほんの一部だってこと、分かって来たでしょ。
それじゃぁ、ヨハネの福音書に入って行きます。
「初めに言葉ありき」
この意味、分かりますよね。
最初に、あったのは宇宙とかビックバンじゃないんですよ。
最初にあったのは、人が想像できるシステムです。
その最上層が記号レイヤーです。
つまり、言葉です。
だから、「初めに言葉ありき」なんです。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますけど、ここでいう言葉は、ギリシャ語のロゴスです。
ロゴスは、言葉以外に、理論とか、論理とか、概念って意味があります。
つまり、ものごとを論理的に考えるシステムって感じです。
ヨハネの福音書は続きます。
言葉は神と共にあった
言葉は神であった。
ここに神が出てきました。
ここで、新約聖書について、ちょっと説明しておきます。
新約聖書は、キリスト教の聖典で、イエス・キリストについて書かれています。
福音書というのは、キリストの生涯と教えについて、イエスの弟子たちが書いたもので、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書があります。
このうち、マタイ、マルコ、ルカの福音書は、よく似た内容となってます。
イエスの生涯を書いてるので、似てるのは当たり前です。
ところが、ヨハネの福音書だけ、ちょっと趣が違うんですよ。
どう違うかといううと、歴史的な事実より、神学的な要素が強いんです。
どういうことかというと、イエスは神の子であることを証明することに重点を置いているんです。
だから、哲学的な話になってるんです。
西洋の考える世界の成り立ちというのが、ここから読み取れます。
まず、世界を創ったのは神です。
ただ、その世界というのは、目に見える物理世界だけじゃありません。
物理世界は、現実に現れたほんの一部です。
その背後に、真の世界があるわけです。
それが、ロゴスの世界というわけです。
こっちが先なんです。
というか、ここがスタートなんです。
だから、初めにあったのはロゴス、つまり言葉です。
世界を創ったのは神です。
だから、「言葉は神と共にあった」わけです。
「言葉は神であった」わけです。
ヨハネの福音書はさらに続きます。
全ての物は、これによってできた。
出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
まず、最初に、ロゴス、言葉があるわけです。
あらゆる物事は、言葉から生まれるわけです。
言葉でしか考えることができないってことです。
そして、言葉で考えれることしか理解できないわけです。
現実世界にあって、人が認識できるものは、全て、言葉で考えれるものってことです。
現実世界の背後にあるロゴス、言葉こそが、世界の根本を成り立たせてるものです。
現実世界の背後に、秩序だったシステムがあるわけです。
神のシステムです。
これが、父なる神です。
これが西洋キリスト教の世界観です。
もう少し続けます。
ロゴスとは論理のことです。
論理的な思考とは、AならばB,BならばCといったものです。
AよりBが大きいとか比較できる世界です。
そうやって、何が正しいかを論理的に導くわけです。
何が正しいかを突き詰めていくと、正しくない物が排除されます。
客観的に正しいものが残ります。
客観的に正しいものといえば科学です。
というか、最後には、科学しか残りません。
皮肉なことに、科学によって宗教が否定されることになりました。
それが17世紀に起った科学革命です。
科学によって神が否定されたわけです。
でも、これは、ロゴス、言葉から出発した当然の帰結と言えます。
科学が勝利したわけです。
そうして、今では、世界といえば、この現実世界、物理世界が全てとなったわけです。
でも、本当に、これが正しいんでしょうか?
現実世界以外の世界が切り捨てられたんですよ。
現実世界の背後にあったものが、無かったことにされたんですよ。
物理世界が客観的に正しい世界というのは認めます。
でも、だからといって、物理世界だけ残して、それ以外の世界を認めないというのはどうでしょう?
それ以外の世界というのは、客観的でない世界のことです。
つまり、主観で感じる世界のことです。
主観で感じることも扱える大きな世界観はないんでしょうか?
というか、元々、主観も客観も含んだ大きな世界観だったはずです。
どこで間違ったんでしょう?
もしかしたら、出発点が間違ってたんじゃないでしょうか?
つまり、「最初に言葉ありき」です。
ロゴス中心の世界観です。
それじゃぁ、もっと、根本的に違う世界観ってないんでしょうか?
はい、それが仏教です。
仏教の世界観です。
たしかに、仏教と科学が対立したって話、聞いたことないですよね。
仏教の考えって、科学とは根本的に違うはずですけど、なんで対立しないんでしょう。
これ、よく考えたら不思議です。
仏教とキリスト教の根本的な考えの違い。
脳から考えて行くと、もう少し分かってくるかもしれません。
この考察を、もう少し続けてみたいと思います。
今回の動画が面白かったらチャンネル登録、高評価お願いしますね。
それじゃぁ、次回も、おっ楽しみに!