ロボマインド・プロジェクト、第243弾!
こんにちは、ロボマインドの田方です。
さて、前回、前々回と語ってきたのが「キリスト教と仏教を脳科学で解明!」シリーズです。
今までは、キリスト教の世界観について考えてきました。
今回は仏教です。
宗教って、正しい生き方とかを指し示すものですよね。
その根拠として、世界の成り立ちとかから説明するわけです。
だから、どの宗教も、最初は世界がどうやって生まれたかって神話から始まるわけです。
キリスト教なら、天地創造ですし、日本神話にも天地開闢の話があります。
これはもっともな話ですよね。
でもね、これ、よく考えると、これは世界の半分しか説明してないんですよ。
どういうことかというと、天地創造で創られる世界って、三次元の物理世界です。
現実に存在する世界です。
でも、世界には、もう一つの見方があります。
それは、人が認識する世界って側面です。
世界が物理的に存在するのは事実です。
それと共に、人が認識して、初めて、世界を理解するってのも事実です。
世界には、この二つの側面があるわけです。
物理世界がどうやってできたかってだけじゃ、半分しか説明してないんですよ。
残りの半分、世界をどうやって認識してるかって説明も必要なんです。
でも、こっち側を、ちゃんと説明してるとこって、あんまりないんですよ。
その数少ない一つが、仏教です。
それじゃぁ、仏教では、それを、どうやって解明してるんでしょう。
それは、瞑想とか座禅です。
釈迦は、菩提樹の樹の下で瞑想して悟ったと言います。
釈迦が出した結論が、「色即是空」です。
色(しき)とは、この世に存在するあらゆる事物の事です。
そして、その本質は空であると悟ったわけです。
これ、一体、どういう意味でしょう?
ここに、キリスト教と仏教の根本的な世界観の違いがあるんです。
これが、今回のテーマです。
キリスト教と仏教を脳科学で解明!
色即是空
それでは、始めましょう!
このチャンネルを運営して、2年以上になりますけど、その間、一番多く寄せられたのが、僕の言ってることは、仏教哲学と同じだって感想です。
これ、よく意味がわからなかったんですけど、今回、ちょっと真面目に仏教のことを勉強してみたら、ほんと、その通りだって思いました。
何が同じかというと、僕が主張してる意識の仮想世界仮説のことです。
意識の仮想世界仮説ってのは、心の仕組みの仮説です。
人は、目で見た世界を頭の中に仮想世界として構築します。
意識は、この仮想世界を介して、現実世界を認識します。
これが、意識の仮想世界仮説です。
これを基にして世界を認識するシステムを世界認識システムと呼んでいます。
詳しくは、この本に書いてるので、興味ある方は読んでください。
それじゃぁ、仏教は、どんな風に世界を考えているんでしょう。
仏教には、五蘊(ごうん)って言葉があります。
この世に存在する物は、五つのグループに分けられるって考えです。
その五つとは、色(しき)、受、想、行(ぎょう)、識の五つです。
「色」っていうのは、現実世界に存在する物質的存在の総称です。
「受」っていうのは、痛いとか熱いとかって肉体的な感覚とか、快不快って印象のことです。
「想」っていうのは、ものごとを思い浮かべる作用のことです。
「行」っていうのは、意志とか、心がある方向に向くことです。
「識」っていうのは、認識のことです。目や耳といった感覚器で感じる知覚のことです。
これが、仏教での世界の見方です。
皆さん、気が付きましたか?
これ、ちょっと、普通じゃないですよね。
何が普通じゃないかって言うと、この五つの中で、現実世界について述べてるのは「色(しき)」だけなんですよ。
残りの四つは、心の中、精神作用の事なんですよ。
これ、キリスト教世界と比べれば、その違いがよく分かります。
たとえば旧約聖書だと、神は最初に天と地を創って、次に生物を創って、最後に人間を創ったとかってあります。
これがキリスト教世界で考える世界の全てです。
ところが、仏教では、これらを全部ひっくるめて「色」の一つで済ましてるんですよ。
天も地も動物も人間も「色」なんですよ。
残りの4つの「受」「想」「行」「識」は頭の中の精神作用です。
こっちの方が、詳しいんですよ。
頭の外にある現実世界より、頭の中の方に重きを置いてるわけです。
仏教には、これをさらに追及した考えがあります。
それを、「唯識」っていいます。
この唯識の考え方、面白いんですよ。
その考えを一言で言えば、現実世界は存在しないってなります。
唯識は、八種類の「識」という物を仮定します。
まず、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五つの感覚があります。
これを前五識といいます。
その次に、6番目の識として意識があります。考えたり、感じたりするところです。
ここまでが意識です。
その下にあるのが無意識です。
無意識には、まず、末那識(まなしき)があります。
これは、潜在意識のことで、執着する心のことと言われています。
さらにその下にに阿頼耶識(あらやしき)こいう根本の識があります。
この阿頼耶識が、末那識(まなしき)、意識、前五識を生み出して、さらに、身体も生み出します。
そして、これが、他の識と相互作用して、僕らが世界と思ってるものも生み出してるんです。
分かりにくいと思うので、別の説明も紹介します。
僕らは、物を認識しますよね。
でも、これは直接、その物を認識してるんじゃないんです。
まず、外界にある対象を知覚したら、その一瞬後に、それを心の中に像として出現します。
つまり、知覚からスタートした因果関係の中で、結果として生じた像を認識してるわけです。
これが、外界の対象を直接認識してないってことです。
意識が認識してるのは、知覚によって生じた像です。
さっき、阿頼耶識が、身体と世界を生み出してるっていいましたよね。
つまり、身体も世界も、知覚によって生み出された像ってわけです。
意識が認識してる世界は、実体じゃなくて、像ってことです。
気付きましたか?
この唯識の考え、これって、意識の仮想世界仮説そのものなんですよ。
意識の仮想世界仮説では、目で見た世界を仮想世界として、頭の中につくります。
その仕組みが世界認識システムです。
阿頼耶識が世界の像を生み出してるってのと、同じことを言ってるんですよ。
このチャンネルのコメントで、あなたの言ってることは唯識と同じですよねって、何度か言われたことがありました。
よく意味がわからなかったので、「はい、そうです」って適当に返事してましたけど、今回、ようやく意味が分かりました。
ホント、意識の仮想世界仮説と唯識ってそっくりですよね。
2500年前に、すでに釈迦がいってたんですよね。
さて、このチャンネルで、よく登場するのが、「120%脳を解放した女」シリーズの主人公、ジル・ボルト・テイラーです。
ジルは、左脳が脳卒中になって、体の境界が薄れていくのを感じました。
これって、阿頼耶識が創り出してた身体感覚が薄れて行ったってことですよね。
実際の肉体が薄くなったわけじゃないです。
意識が感じてるのは、肉体そのものじゃなくて、阿頼耶識が創り出した肉体の像ってことです。
それから、唯識でいう意識とは、自我のことです。
インド哲学で「梵我一如(ぼんがいちにょ)」って言葉があります。
「梵」っていうのは、言ってみれば世界ってことです。
「我」は自我のことです。自分です。
つまり、「梵我一如」っていうのは、自分と世界とは同じだって考えです。
体の境界が薄くなったジルは、自分の体が世界に溶け出して、世界と一体となった感覚を得たと言ってます。
これ、まさに梵我一如ですよね。
菩提樹の樹の下で悟りを開いた釈迦も、同じ感覚を得たんじゃないかと思います。
ジルは脳科学者でもあるので、その時、脳のどこに障害が起こったか、正確に指摘しています。
それは、方向定位連合野と呼ばれる部位です。
この部位の機能は、自己と非自己を区別することです。
自分と自分以外とを区別できるのは、この機能があるからです。
おそらく、阿頼耶識とは、方向定位連合野にあるんでしょう。
ジルは、こうも語っています。
自分の手と、壁との境界が分からなくなったって。
まとまりのある自分の身体を感じれるのは、この機能があるからです。
おそらく、釈迦も同じように感じたんでしょう。
自分の体すら、自分が作り出した幻想だと。
日々、感じてるあらゆる物事は、すべて自分が作り出したものと悟ったんです。
これを言い表したのが「色即是空」です。
般若心経で最も有名な言葉です。
般若心経は、仏教思想の核心を解いた仏典です。
色(しき)とは、最初に説明しましたけど、現実世界、物理世界に存在するあらゆる物事のことです。
それが空なわけです。
実体などないというわけです。
唯識でいうところの阿頼耶識が創り出した像です。
仮想世界です。
世界とは、世界認識システムが創り出した仮想世界というわけです。
逆に言えば、世界認識システムがあるから、何もない所に仮想世界を作り出せるんです。
世界があると感じるんです。
このことを般若心経では、「空即是色」といってます。
何もないところに、世界は生まれるってことです。
確かな実体のある世界なんか存在しない。
色即是空
空即是色
これが仏教の世界観です。
最後に、仏教とキリスト教の世界観の違いについて考えて行きます。
これ、世界認識システムで考えると、きれいに整理できるんですよ。
まず、仏教です。
仏教の世界観は、世界認識システムを弱めようとする方向に向かっています。
世界認識システムの機能が弱くなれば、自分と他人、自分と世界を区別しなくなります。
世界は一つだって理解できるようになります。
自分と他人とを区別さえしなければ、比較することもなく、どちらが正しいかで争うこともなくなります。
それを目指しましょうって言うのが釈迦の教えです。
これが、仏教の目指してるものです。
一方、キリスト教の世界観は、世界認識システムを強化する方向に進みました。
スタートは、「初めに言葉ありき」です。
論理的な世界です。
これは、自分と他人を区別する世界です。
どちらが正しいかを追及する世界観です。
この世界観から、必然的に科学生まれました。
科学は、やがて宗教や神を否定しました。
そうやって、西洋文明を発展させてきました。
さて、釈迦が、菩提樹の樹の下で悟ったのは、この世界は空だってことです。
現実と思われてる世界は、世界認識システムがつくり出した仮想世界だってことです。
釈迦が悟りを開いて、約2500年経ちます。
ロボマインドは、それをコンピュータで再現しようとしています。
色即是空、空即是色を理解できるロボットです。
これは、今までのロボットとは全然ちがいます。
天気予報を教えてとか、そんな質問に答えるだけのロボットじゃないです。
「どうして、僕は、みんなみたいにうまくできないんでしょう?」なんて悩みとかにも答えてくれます。
「他人と比較するのを止めなさい。あなたも相手は同じなのです」とかって諭してくれます。
悟りを開いたロボットです。
まさに、これこそが人間を超えたAIです。
それじゃぁ、キリスト教の世界観で作られたAIってどういうものでしょう?
比較して、どちらが正しいかって判断するAIです。
正しいものが生き残って、正しくない物は消し去るべきって考えるAIです。
西洋キリスト教世界観を押し進めることで、科学が生まれましたよね。
そして、その科学によって、宗教や神が否定され、消し去られたわけです。
AIも同じです。
どちらが正しいかを追及するAIは、やがて、AIと人間のどちらか正しいかを問うでしょう。
はたして、AIは、人間が正しいと判断するでしょうか?
そのAIが、人間は消し去るべきと判断しないと言い切れるでしょうか?
たぶん、イーロン・マスクが作るAIは、いつか、人類を抹殺することになると思いますよ。
きっと、最後の審判が起こります。
ロボマインドがつくるAIは、人間やAIの区別なく、世界は一つだと諭します。
争いのない平和な世界へと導きます。
あなたは、どちらのAIを望みますか?
はい、今回の動画が面白かったらチャンネル登録、高評価お願いしますね。
それでは、次回もおっ楽しみに!