第285回 忘れることができない! 記憶術師の苦悩


ロボマインド・プロジェクト、第285弾!
こんにちは、ロボマインドの田方です。

今日の話は、この本、『偉大な記憶力の物語-ある記憶術者の精神生活』を元にしてます。
著者は、アレクサンドル・ルリア。

第276回で、オリヴァー・サックスの『妻を帽子とまちがえた男』を紹介しましたけど、その本の前書きに、ルリアのこの本のことが書かれてあったんですよ。
サックス教授は、最近の脳、神経科学は、脳の機能の解明はかなり進んでいますけど、心の部分が置いてきぼりになっていると嘆いています。

19世紀の病理学は、病気を個人の物語として記述していて、体と心を一体ととらえてました。
それが、医学は体にばかり目を向けるようになって、心を無視するようになったと。
でも、脳を扱うのに、心を無視するわけにはいかないですよね。
心の中まで扱ったかつての病理学の復権を目指したのがルリアだったそうです。
これは、心のメカニズムを解明したい僕も同じ考えです。

アレクサンドル・ルリアは20世紀前半のロシアの心理学者です。
今回紹介する本は、とんでもない記憶力をもつ記憶術者、シィーの物語です。
当時のロシアに、記憶術ショーってのがあったんですよ。
お客さんから提示された文章や、名前、数字を覚えるショーです。

シィーが、ある日、ルリアの元を訪ねてきて、自分の記憶力を確かめて欲しいと依頼したそうです。
ルリアが、単語や数字を読み上げると、シィ―は全部記憶したそうです。
単語の数を、30,50,70と増やしていっても、全く間違うことなかったそうです。
調べた限りでは、記憶できる量に上限はなかったそうです。
しかも、逆順で再生することもできたそうです。
驚くのは、一度覚えたら、二度と忘れることがなかったことです。
ルリアは、10年後、15年後に、覚えてるかテストしたそうですけど、全く、間違わずに言えたそうです。

シィーの話を読むと、記憶の不思議さがよくわかります。
そして、記憶するより重要なことがあることに気付きます。
それは、忘れることです。

忘れるって、あまりにも普通の事なので、どうやったら忘れるやろって、あまり、考えたことないですよね。
試験の前とか、英単語をどうやったら覚えれるやろうって悩むことはあると思いますけど。
これは、覚えるのは意識して覚えるのに対して、忘れるのって、無意識が勝手に行ってるからです。
でも、この無意識が行ってる忘れるって機能が働かなくなったらどうなると思います?

これが、今回のテーマです。
忘れることができない!
記憶術師の苦悩
それでは、始めましょう!

さて、シィーも、たまには間違うことがあるそうなんです。
ただ、その間違い方が、普通とちょっと違うんです。

普通なら、意味が似た言葉と間違うとか、音が似た言葉を間違いますよね。
でも、シィーの場合、そういう間違いは全くありませんでした。
ただ、ごくまれに、単語が出てこないときがあります。
でも、そのとき、「思い出せない」とは言わないそうです。
「よく見えない」っていうそうです。
ここに、シィーの独特の記憶方法が垣間見えるんですよ。

前回、第284回で、共感覚の話をしました。
共感覚っていうのは、文字を見たら色を感じたり、音を聞いたら形を感じることです。
じつは、シィーも共感覚の持ち主でした。
それも、今まで聞いたことのない強烈な共感覚です。

何か言葉や数字を聞くと、それは、鮮明なイメージが思い浮かぶそうです。
たとえば、「緑の」って言葉を聞くと、緑色の壺がはっきりと現れるそうです。
「赤い」って言葉を聞くと、赤い上着を着た人が現れるそうです。

数字の場合、人物が現れます。
数字の7なら、長い口髭のおじさん。
数字の8なら、太ったおばさんといった感じです。
そして、「87」って数字を見たら、太ったおばさんと口髭のおじさんが並んでるイメージが思い浮かぶそうです。

シィーは、これを上手く使って記憶するわけです。
どうやってるかというと、まず、家から駅までの通りとか、良く知った通りを思い浮かべます。
そして、読み上げた文章の言葉を一つ一つイメージに変換して、それを通りに順番に並べていくわけです。
思い出すときは、その通りを歩きながら、置いてある物を読み上げるだけです。
だから、通りを逆から歩けば、逆順で再生することもできるんです。

じゃぁ、どんな場合に記憶違いをするんでしょう。
それは、通りに置いたものが、良く見えないときです。
たとえば、卵を白い壁の前に置くと、背景の壁の色に紛れて、良く見えません。
これが、シィーにとっての、思い出せないってことです。
だから、「良く見えない」っていってたんです。

シィーの驚くべき能力は、一度イメージした光景は決して忘れないってことです。
10年後でも、20年後でも、いつでも、この光景があざやかに蘇るそうです。
それじゃぁ、逆に、忘れないことで不便なことはないんでしょうか?

それは、記憶術者として、一日に何度もショーをするとき、困ることがあったそうです。
ショーの一つに、観客が黒板に書いた文や絵を暗記する出し物がありました。
そんなとき、シィーは、黒板のイメージをそのまま記憶して思い出すそうです。
多いときは、1日に3回もショーをしてました。
そうしたら、思い出した黒板が、前回のショーの黒板か、今回のショーの黒板か、分からなくなるそうです。
だから、ショーが終わるごとに、頭の中の黒板に真っ黒なシートを貼り付けて、黒板の内容を消していたそうです。
つまり、忘れることができないので、わざわざ、忘れる努力をしないといけないんです。

それから、人の話を聞いてるとき、あまりにも鮮やかに光景がイメージされて、肝心の言いたいことが頭に入ってこないそうです。

たとえば、「商人は織物を売った」って聞いたら、その瞬間、商店があざやかに現れて、店の奥に立ってる商人が見えるそうです。
お店には、客もいて、シィーは入口から店の中を眺めてるそうです。
そして、商人がその客に織物を売ると、帳簿に記入するところとか、細部までありありと見えるそうです。
たぶん、無意識が自動的にイメージをつくり出してるんでしょう。

「その商人は、自分のおじさんで、元は新聞社に勤めていて・・・」って話が続くと、次々にその光景がリアルに思い浮かぶそうです。
でも、最初の場面の帳簿とか、客のイメージが消えることはありません。
イメージできるってことは、話の意味は理解できてるってことですよね。
でも、そんなイメージがどんどん増えていったら、何が重要なのかとか、要点は何かとか、そう言ったことが分からなくなります。

ここまで読んだとき、僕はハッとしました。
これは、ヤバい。
全く同じだって、

僕自身の事じゃないですよ。
僕じゃなくて、僕がつくってるマインド・エンジンのことです。
マインド・エンジンは、言葉の意味を理解できるシステムです。
意味理解の方法は、人が話す言葉を、コンピュータプログラムに置き換えて行います。
この時使うプログラムが、僕らが独自に設計したオブジェクト指向言語です。
そして、マインド・エンジンにとっての意味理解っていうのは、オブジェクトを生成することなんですよ。
マインド・エンジンは、文を読むと、次々とオブジェクトを生成していきます。
これって、シィーの頭の中と同じじゃないですか。
でも、シィーの話を読んで、大事なことに気付いたんですよ。
それは、オブジェクトを生成できたからといって、それだけで意味を理解したってことにならないってことです。

つまり、会話って、次々に話が進みますよね。
話が進むとき、意識は、今の話題を、次々にキャッチアップしていきますよね。
そういう仕組みがあるってことです。
その仕組みって、たぶん、過去の話題を忘れるってことやと思うんです。
常に、今の話題だけが残るんです。
だから、意識は、自然と会話の流れについていけるんです。

過去の話題を忘れる仕組みが無かったら、膨大なイメージが見えて、何の話をしてるのか分からなくなると思うんですよ。
これが、シィーの頭の中で起こってることです。

だから、過去の話題を忘れ去る仕組みを作ればいいわけです。
まぁ、言うのは簡単です。
でも、僕らは、コンピュータでそれを実現しようとしてます。
プログラムで実現できるぐらい具体的な仕組みを考えないといけないんです。
でも、どうやって、これは忘れてもいいって、これは覚えておかないといけないって判断したらいいんでしょう?
そんなこと、できるんでしょうか?

それができるんです。
ヒントは、オブジェクト指向言語にありました。
厳密には、オブジェクト指向言語とは別なんですけど、オブジェクト指向言語javaで採用されたので、よく一緒に語られる技術です。
それは、ガベージコレクションという技術です。
ガベージコレクションは、直訳すれば、ゴミ集めです。
不要になったゴミを集めて捨てるってことです。

それでは、説明しますよ。
オブジェクトというものは、メモリ上に生成されるデータのまとまりです。
プログラムでオブジェクトを次々に生成していくと、やがて、メモリがいっぱいになってプログラムが動かなくなってしまいます。
そうならないように、いらなくなったオブジェクトを削除する必要があります。
これを、オブジェクトの解放と言います。

java以前のプログラムでは、必要がなくなったオブジェクトは、プログラマーが自分で解放していました。
でも、つい、忘れてしまうんですよ。
そうなると、メモリがいっぱいになってプログラムが止まってしまいます。

そこで、このメモリ解放を自動で行う仕組みがつくられました。
それがガベージコレクションです。

たとえば、こんな文章があったとします。

「オタマジャクシが生まれました。
オタマジャクシは、カエルになりました」

これをプログラムで書いてみます。
a = new Otamajakusi();
a= new Frog();
こんな感じです。

new Otamajakusi();って言うのは、オタマジャクシオブジェクトをメモリ上に生成するってことです。
つまり、これが「オタマジャクシが生まれました」です。

a = new Otamajakusi();は、生成したオタマジャクシオブジェクトを変数aに代入するってことです。

オブジェクトは、プロパティとかメソッドとかをもったデータのまとまりです。
それが、メモリのある領域を占めるわけです。
変数は、オブジェクトの先頭のメモリアドレスを持ちます。
だから、変数を介してオブジェクトの必要なデータにアクセスできます。

まぁ、この辺りの話は、プログラムを書いたことがない人は、よく分からないかもしれませんけど、まぁ、そんな物かと思って聞いといてください。

最初、オタマジャクシオブジェクトは、変数aに代入されました。
つまり、変数aがオタマジャクシを指し示すわけです。
その後、変数aには、カエルオブジェクトが代入されました。
つまり、変数aは、カエルオブジェクトになったわけです。
これを文で表すと、「オタマジャクシがカエルになった」となるわけです。

さて、ガベージコレクションの話はこっからです。
オブジェクトは、変数を介してアクセスしましたよね。
今、変数aには、カエルオブジェクトが入ってますよね。
じゃぁ、オタマジャクシオブジェクトは、どうなったでしょう?

変数に代入されてないので、どこからもアクセスできません。
つまり、もう二度と、使われないわけです。
つまり、オタマジャクシオブジェクトは、メモリから解放しても問題ないってことです。
そして、それをやるのが、ガベージコレクションってわけです。

元の文に戻ります。
「オタマジャクシがカエルに変わりました」
これは、話題がオタマジャクシからカエルに変わったわけです。
その後は、たとえば、「カエルはゲロゲロ鳴きます」とかって続いたりします。
話題がカエルに移ったら、もう、オタマジャクシの事は忘れてもいいわけです。
オタマジャクシオブジェクトはメモリから解放してもいいってことです。
おそらく、人は、それを無意識でやってるんでしょう。

おそらく、シィーは、この機能が動かなくなってたのかも知れません。
忘れるとは、本当に重要なことだって分かりますよね。

マインド・エンジンも、ガベージコレクションの機能を追加することで、より人間の心に近づくことができます。
マインド・エンジンの基本的な考えは、この本に書いてありますので、興味がある人は読んでください。
今回の動画が面白かったらチャンネル登録、高評価お願いしますね。
それじゃぁ、次回も、おっ楽しみに!