ロボマインド・プロジェクト、第44弾
こんにちは、ロボマインドの田方です。
さて、前回は、意識科学の話、特に「意識のハードプロブレム」の話をしました。
意識は物理現象で解明できないって話でした。
この話、突き詰めると魂って存在するのって話になるんですよ。
難しい言葉で言えば心身二元論です。
心身二元論といえば、デカルトが有名です。
(哲学者 ルネ・デカルト 1596~1650)
17世紀の哲学者です。
デカルトは、体と魂は別物で、それは脳の中心にある松果体で繋がってるっていいました。
ほんで、体は、魂からの指令で動いてるってことらしいです。
う~ん、言わんとしてることはわかります。
いかにも、昔の人が考えそうなことですよね。
でも、現代科学には、ちょっと、なじまないです。
かといって、心は存在しないわけじゃないです。
脳のどっかに、心とか、意識とかあるはずです。
そうやって、20世紀の終わりごろ、意識科学が登場したわけです。
そこで、まずは、デカルトの心身二元論と、現代の意識科学が扱う意識は同じなのかについて考えてみます。
違いを一言で言えば、死んだあとどうなるかです。
デカルトが考えてた魂は、肉体が死んだ後も残ります。
魂が、宙を舞って、死後の世界に行くようです。
でも、現代の意識科学が扱う意識は、肉体が死ぬと、意識も消えます。
意識だけ、単独で存在することは想定していません。
本当のところは、どうか知りませんけど、とにかく、僕らが作ろうとしてる意識は、そういうものです。
そう考えると、脳と意識の関係が、コンピュータのハードウェアとソフトウェアの関係っていうのも理にかなっていますよね。
ハードウェアが動かなくなると、ソフトウエアも動きませんから。
意識がソフトウェアというのはうなずけます。
それじゃぁ、つぎは、ソフトウェアなら何でもいいのかって話が出てきます。
たとえば、お掃除ロボットルンバは、コンピュータで制御されて動いてます。
それじゃぁ、ルンバのソフトウェアは意識かって話になりますよね。
ここから、次の段階の話になります。
「意識のハードプロブレム」を提唱した哲学者デイビッド・チャーマーズって、思考実験を考えるのが上手い人でしてね。
(哲学者 デイヴィッド・チャーマーズ 1966年~)
「意識のハードプロブレム」って思考実験も、意識は物理現象で説明できないってことを分かりやすく説明してるわけです。
ほんで、そのチャーマーズのもう一つの有名な思考実験に、「哲学的ゾンビ」っていうのがあります。
見たことあります? ゾンビ。
こんなヤツ。
僕は1回だけ、見たことあるんですよ。
小学校1年のときですけどね、帰りが遅なってね、早よかえらなって思って、普段は通らない墓地を通ったときなんですよ・・・
おっと、だいぶ話がそれそうなんで、この話は、また、別の機会にします。
今は、「哲学的ゾンビ」の話です。
哲学的ゾンビってのは、見かけは、全く人間と同じなんですよ。
普通に暮らしてて、誰も、ゾンビって気が付かないんですわ。
じゃぁ、何が違うかって言うと、内面的経験がないらしいんですわ。
内面的経験って何かって言うと、一言で言えば、人間と同じ意識のことです。
クオリアを感じるかってことです。
クオリアについては、第30回~34回の「クオリアってなんだ」シリーズを見てください。
一言で言えば、クオリアって、主観的な感覚のことです。
内面的経験を持つって、このクオリアを感じるってことです。
たとえば、赤とか、色のクオリアを感じるとか。
痛いとか、熱いって感覚のクオリアを感じるとか。
楽しいとか、悲しいって感情のクオリアを感じるとか。
こういったことを感じることができるのが、意識を持った人間というわけです。
哲学的ゾンビは、そんな内面的経験は一切感じないんですけど、でも、赤い色をみたら、赤って言えます。
針で刺したら、痛いって言って、痛そうにします。
笑ったり泣いたりって行動はするけど、本当に楽しかったり、悲しかったり感じてるわけじゃないんです。
そんな人間です。
だから、ゾンビなんですよ。
何となく、わかってきました?
哲学的ゾンビって。
哲学的ゾンビ、これは思考実験なんで、実際に、そんなゾンビがいるわけじゃないですよ。
じゃぁ、なんでそんなもの、考えだしたかって言うと、意識とか、クオリアって、何かっていうのを、はっきりさせるためです。
今回は、この哲学的ゾンビを、コンピュータのハードウェアとソフトウェアで読み解いていこうと思います。
話を戻して、お掃除ロボット、「ルンバには、意識はあるか」ってことを考えていきます。
まず、大前提として、ルンバには、人間のような意識はないとします。
つまり、ルンバは、
「俺は、いったい、何のために生まれてきたのか?」とか、
「掃除してるだけで、一生終わってもいいのか?」
とか考えてないということです。
スピーカーを付けても、
「こんな生活から、抜け出してやる!」とか、しゃべりださないってことです。
これが、ルンバには、内的経験がないってことです。
ここは、問題ないですよね。
意識科学が登場したのは、1990年代です。
「意識のハードプロブレム」とか「哲学的ゾンビ」とか、そんなことが言われだして30年近く経ちます。
哲学者たちが、そんな思考実験を提示してくれたおかげで、意識とは何かって論点がはっきりしてきました。
でも、哲学者の仕事は、そこまでなんですよ。
哲学者は、解決策は提示してくれません。
そろそろ、意識の仕組みを解明したいですよね。
意識はコンピュータのソフトウェアだって話までしました。
だから、意識の解明には、ソフトウェアの設計っていう視点が必要なんです。
ソフトウェアって、どうやって開発するか知ってます?
それは、仕様書どおりに作るわけです。
仕様書には、こういう入力があると、こういう出力をするとかって条件を書いてるわけです。
意識のソフトウェアの場合だと、哲学者の考えた思考実験や、脳科学での実験結果と同じ結果が出るように、設計するわけです。
そして、まさに、それをやってるのが、ロボマインド・プロジェクトとなるわけです。
前置きはこのぐらいにして、ここからは、内的経験を持ち得るソフトウェアの設計図を考えていきます。
まずは、ルンバを考えてみましょう。
ルンバは移動するためのタイヤと、掃除するための回転ブラシを持っています。
また、壁にぶつかったことを検知するセンサーも持ってます。
このルンバのプログラムを考えてみます。
センサーで壁にぶつかったことを検知すると、一旦停止して、向きを変えて、再び直進する。
これじゃぁ、内的経験なんか、なさそうですよね。
それじゃぁ、どうなれば、内的経験を持ってるといえるでしょう?
たとえば、ルンバが壁にぶつかったとしましょう。
ガシャン、ガシャン、ガシャン、とかなります。
このとき、
「俺は、いったい、何をやってるんだ?」
「俺の目的は、この部屋を掃除することじゃないのか?」
「こんなことをしてたら、部屋を掃除できないじゃないか!」
こんな風に思ったとしたら、内的経験があると思っていいですよね。
じゃぁ、このルンバと、普通のルンバの違いは何でしょう?
もう一回やりますよ。
ガシャン、ガシャン、ガシャン
「俺は、いったい、何をやってるんだ?」
はい、ここです。
分かりましたか?
「俺は、いったい、何をやってるんだ?」
このセリフには、いろんな重要な意味が隠れています。
まず、「俺」です。
つまり自分のことです。
自分で、自分だってわかってるんです。
これ、どういうことか分かります?
これ、自分と自分以外とを区別してるってことです。
もっといえば、自分と世界とを分けて考えてるってことです。
逆に言うと、普通のルンバは、自分と世界とを分けて考えてないってことです。
世界と一体となってるわけです。
ここ、ものすごく重要なポイントです。
ルンバは、壁にぶつかったら、それに応じた決まりきった動きをするだけです。
世界に反応しているだけです。
これって、何か、思い出しませんか?
今まで、この動画シリーズを見てくれた人なら思い出したと思いますけど、世界に反応するのは無意識です。
たとえば、第20回「見えてる世界は幻想だ」では、表の自分と裏の自分の話をしました。
表の自分ってのは、意識のある自分です。
裏の自分ってのは、無意識の自分です。
裏の自分って、自転車を運転してるときの自分のことです。
無意識でバランスを取ってる自分のことです。
これが、世界に反応してる自分です。
世界に反応して動いてるだけです。
内的経験を持ち得るかどうか。
意識を持つか、持たないか。
それは、世界と自分を区別してるか。
または、世界と一体となってるか。
そういったことに関係がありそうですよね。
普通のルンバは、自分と世界を区別していない。
だから、意識を持ち得ない。
逆に言えば、自分と世界を区別するようなプログラムができれば、
意識が発生する?
内的経験を持ち得る?
そんなことが言えそうですよねぇ。
これが、ロボマインド・プロジェクトが取り組んでいることです。
もし、興味があれば、チャンネル登録して、あなたもロボマインド・プロジェクトに参加してください。
それでは、次回は、いよいよ、ルンバに意識を持たせてみます。
次回も、お楽しみに!