第462回 意識からみた右脳と左脳の違い


ロボマインド・プロジェクト、第462弾!
こんにちは、ロボマインドの田方です。
読み続けてる山鳥先生の『脳からみた心』ですけど、今回から、新しい章「心のかたち」に入ります。

具体的な内容は何かというと、ズバリ、右脳と左脳です。
これ、最近の僕の一番の関心ごとです。
僕らは、今、人間の心をそのままコンピュータで再現するマインド・エンジンを作っています。
脳をシミュレーションするってプロジェクトは世界中で行ってます。
その多くは、ニューロンとか脳科学で解明されたものをコンピュータで再現することです。
ただ、脳科学ではまだ心や意識は解明されてないので、このやり方で心や意識が生まれるかどうかはわかりません。
それに対して、僕らは意識とか主観といったトップの機能自体をコンピュータで再現しようとしています。
そのために、人間の意識を解明する必要があります。
最近、分かってきたのが、どうも人の意識は二種類の方法で世界を認識してるってことです。
それが右脳と左脳です。
でも、今、右脳で考えてるとか、左脳で考えてるとかって分からないでしょ。
もし、それが分かる人がいるとすれば、それは右脳か左脳が停止した人です。
そして、この本には、そんな人がいっぱい登場します。
これが今回のテーマです。
右脳、左脳が停止したとき、世界はどう感じられるのか?
それでは、始めましょう!

まず紹介するのはロシアの音楽家シバーリンです。
シバーリンはモスクワの音楽大学で作曲を教えながら自身でも作曲をしていました。
彼は57歳のとき言語障害と右半身が麻痺して、その3年6か月後心筋梗塞でなくなりました。
言語障害はかなり重くて、物や絵を見せられても、その名前を正しく言えません。
さらに言葉の意味も理解できないと訴えていました。
これだけの言語障害を抱えながら、彼は作曲を続け、学生の作品を批評、訂正していました。
失語症になってから亡くなるまでの3年半の間に作曲した曲は著名な演奏家によって次々に上演され、レコードにもなって、賞を受けた曲もありました。
特に第五交響曲は、シェスタコービッチに大絶賛されています。

右半身が麻痺して失語症になったということは、左脳が損傷したわけです。
左脳が損傷しても音楽活動に全く影響がなかったと言うことは、音楽は右脳の担当といえそうです。
これに似た話は、第441回でも取り上げました。
失語症になっても演奏を続けた指揮者、チェザロです。
それから、別の例で、工事現場で落ちてきたバールが頭に直撃して、右の頭頂骨が陥没した人がいます。
その人は、その後、右前頭葉を切除する手術をしたそうです。
彼は、合唱団として活躍してて、歌が得意だったそうですけど、術後、歌と口笛の能力を完全に失ったそうです。
ごく簡単な歌でさえ歌えなくなりました。
ところが、言語能力は全く問題なかったそうです。
これらの話から音楽は右脳、言語は左脳といえそうです。
このことは知ってはいましたけど、ただ、ここまで完全に独立してるとは思っていなかったです。
言語能力と音楽能力、右脳と左脳で完全に独立してるみたいなんです。

次は、絵画です。
1940年代を代表するフランスの現代作家にポール=エリー・ゲルネスがいます。
独特の風景画や静物画が人気でした。

彼は52歳の時、脳卒中で失語症となって、会話は口頭でも筆談でも困難となりました。
ところが、彼の美的な表現能力は全く障害されず絵をかき続けました。
病前と比べて、表現や色彩、構成異常など全くなくて、制作スピードも以前と同じでした。
評論家からは、病後の方が、さらに迫力と鋭さを増したと評されました。
どうやら音楽だけでなく、絵的な美的感覚も言語処理とは完全に独立しているみたいです。
ゲルネス自身も「対象の見方は以前より鋭くなった」と言っています。
また、「抽象的思考ができなくなった」とも言っています。
どうも、抽象的思考をするのが左脳の言語能力と言えそうです。

次は山鳥先生の患者のAさんです。
Aさんはほとんど言葉をしゃべれなくなって、同じことばかり繰り返します。
たとえば「お名前は?」と聞くと、「オーニシ、デス」って答えます。
でも、Aさんの名前は大西じゃありません。
次に、「ここはどこですか?」って聞くと、また「オーニシ、デス」って答えます。
こんな感じで、言葉の意味も理解できません。
ところが、文字で書いて読ませると、意味を理解できるようなんです。
そこで、「御飯の入った茶碗」って文を書いて、その下に絵をかいてもらいました。

そしたら、ちゃんと茶碗らしき絵をかいたんです。
そのあと、どうも、茶碗に御飯が入ってるように見えないと思ったようで、その隣にお箸を立てた茶碗の絵をかきました。
これなら、ご飯が入ってるとわかりますよね。
意味をちゃんと理解してるってことです。

さらに「口を開けた顔」って書くと、口を開けた顔の絵をかくんです。
Aさんに「口を開けてください」って言ってもできないのにですよ。
念のため「目を閉じた顔」って書くと、ちゃんと目を閉じた顔の絵をかくんです。
完璧に理解してるようです。

どうも、言語は、耳から入ってきて理解する経路と、目から入ってきて理解する経路があるようです。
Aさんの場合、耳から入ってきた言葉を理解する経路が損傷してるようです。
だからうまく会話が成立しないですけど、だからと言って意味を理解できないわけじゃありません。
意味理解する処理はこれらと独立してあって、Aさんは、目から入ってきた言葉は、意味理解処理につながってるわけです。

同じような話は、左脳が脳卒中となって右脳の世界を体験した脳科学者、ジル・ボルト・テイラーも言っています。
ジルは、脳卒中になったとき、そのことを同僚に知らせようと電話しましたけどうまく伝えることができませんでした。
何か言おうとしても、口からは「ウォウォウォ」としか出てきません。
それだけじゃありません。
相手がしゃべってる声も「ウォウォウォ」としか聞こえないんです。
耳で聞いた言葉と意味理解処理とをつなぐ経路が壊れてるようです。
それと同時に、音声を発する経路も壊れてます。
どうも、この二つの経路はつながっているようです。

それから注意してほしいのは、ジルは、自分が脳卒中になってるとか、同僚に電話しないといけないとかってちゃんと考えてると言うことです。
理論的な思考や理解はできてるわけです。
ただ、それを言葉に変換することができないってことです。
言葉をしゃべれるのと、意味を理解するのとは独立してるようです。

このことは、例えば第449回「意味はオマケ」、第454回「言葉はなぜ生まれたのか」でも語ってます。
人は進化によって自由に発声することができました。
それによって最初に獲得したの他人の言ったことの真似る機能です。
これが音声言語の始まりです。

意味は、それとは別に進化したものです。
別々に進化した意味と音声がたまたま結びついたのが言葉です。
重要なのは、音声言語と意味は別だってことです。
そして、音声言語を意味に変換する機能が左脳にあるわけです。
だから左脳が損傷すると、意味のある会話ができなくなります。

だからと言って、意味を理解できないわけじゃありません。
Aさんの場合だと、手書き文字と絵を使って意味理解してることは分かりますし、ジルの場合も、自身の状況も何をすべきかってことを理解してました。
ただ、それを音声にしたり、音声で発言された言葉を理解することができなくなっただけです。

さて、今回のテーマは言語じゃなくて、右脳と左脳です。
今の話で分かったのは、左脳が損傷したとき不具合を起こすのは言語機能全般でなくて、耳から入ってきた言葉を意味に変換する部分だといえそうです。
つまり、意味理解自体は左脳というわけではなさそうです。

ここで意味理解を二つに分けます。
一つは、今、現在の状況の把握とか、世界を認識することです。
これを世界の理解とします。
もう一つは、理論的思考です。
AすればBとなるといった原因結果とか、AよりBが大きいといった比較です。
この理論的思考は左脳が得意なものです。

世界の理解といいうのは、見たままの世界を認識するとか、今聞こえてる音を認識するとかです。
つまり、絵画や音楽の世界のことで、これは右脳の担当です。
つまり、意味理解は左脳の理解と右脳の理解の二種類あるわけです。

失語症になった画家のポール・ゲルネスは「抽象的思考ができなくなった」と言ってました。
この抽象的思考というのは、左脳の理解です。
たとえば、「赤」とか、色は抽象概念です。
このチャンネルで何度も紹介してるアマゾンの未開の民族、ピダハンは色を表す言葉を持っていません。
じゃぁ、どうやって赤色を表現するかっていうと、「血の色」とかって言います。
つまり、具体的な「血」ってものから色を示すわけです。
具体的な物からしか考えられないわけです。

「果物」って概念も抽象ですよね。
でも、僕らは普通に「果物」といって理解できますよね。
こういった抽象的な概念を処理するのが左脳です。」

数字とか大きさも抽象です。
だから、比較は左脳の理論的思考になるんです。
それから、時間って概念も先か後かって比較です。
だから時間の理解も左脳になります。
時間を理解できるから、AすればBとなるって原因結果も理解できるわけです。
だから、理論的推論は左脳です。
こうして考えると、学校教育や現代社会で必要な能力って左脳の理解になりますよね。

じゃぁ、右脳の理解とは何でしょう。
右脳が理解するのは、今、現在の具体的な世界です。
抽象化して理解しません。
ありのままの世界そのものを受け取ります。

たとえば、メジャーコードの曲、マイナーコードの曲って言われても、感じることは難しいですよね。
でも、実際の曲を聴いて楽しい気分になると、これはメジャーコードの曲だってわかります。
悲しい気分になると、これはマイナーコードの曲だって分かります。
具体的な曲に付随する形でしか認識できないわけです。
ピダハンが、血の色としてしか「赤」を認識できないのと同じです。

目に見える世界を認識するのも右脳です。
たしかに、絵画にも抽象画ってありますけど、それは言語の抽象概念とは違うんです。
どう違うかって言うと、言語で扱うのはオブジェクトです。
オブジェクトというのはコンピュータプログラムの一種のデータ構造です。
たとえば、リンゴオブジェクトは、赤い色とか、丸い形とか、果物概念とかって意味を持ったデータのまとまりとして表現します。
これが言葉の意味です。
でも、そこにあるのは概念としの色とか形のデータだけで、見た目のリンゴは既に失われてるんですよ。

抽象画で重要なのは、見て感じたです。
それは言葉に表現されるデータじゃないんですよ。
そういった印象を感じ取るのが右脳です。

右脳が損傷すると顔を見分けられなくなる相貌失認になることがあります。
家族の写真をみても誰か分からなくなります。
相貌失認の人ができるのは「髪の毛を真ん中でわけてるから息子かなぁ」って推測するだけです。
僕らは、知ってる顔なら、パッと見てすぐに分かりますよね。
こういった見た目の印象をそのまま感じるのが右脳の理解です。
髪を真ん中で分けてるとか部分の形とか、言葉で表現できるのが左脳の理解です。

おそらく自閉症の人も右脳で感じるんだと思います。
このチャンネルで何度も取り上げてる自閉症の作家、東田直樹さんは桜を見ると、つい、見とれてしまうっていいます。
僕らだったら、たとえば、「今年は桜が咲くのが遅かったよねぇ」とか、「珍しく入学式まで桜がもたねぇ」とかって言うじゃないですか。
でも、これって、もう、桜を見てないんですよ。
桜って言葉に変換して、遅いとか、入学式とかってつなげて会話してるだけです。
これが左脳の理解です。

でも、東田さんは違うんです。
桜の花びらが舞ってるのを見ると、あまりの美しさに心が奪われるっていいます。
だから、桜をできるだけ見ないようにするって。
目の端で感じるだけにするって。
そうしないと、心が奪われて動けなくなるそうです。
これが、世界をありのままに感じるってことです。

それから、僕の友達で支援学校の先生をしてる人も同じようなことを言っていました。
自閉症の子がいるそうなんですけど、プールに入ったら水中に潜って出てこないそうです。
ある時、一緒に潜ったことがあったそうです。
そしたら、その子は水中から空を見上げて楽しそうに笑ってたそうです。
見たら、水の泡が太陽に照らされてキラキラ光ってたそうです。
「あぁ、この子はこれを見てたんだなぁ」って言ってました。

僕らがプールに入ったら、どれだけ息を止められるかとか、どっちが早く泳げるとかって遊ぶじゃないですか。
競争とか比較です。
これって、まさに左脳の思考です。
比較や競争は次の行動につながります。
次は負けないぞとかって。
これが、学校教育で教えることです。

右脳だけで感じる世界を体験したジルは、こう言ってました。
目に見える光景は同じです。
ただ、自分の腕と壁の区別がつかなくなったそうです。
自分の体と壁とを区別するのは、世界をオブジェクトとして認識するのは左脳の処理です。
左脳が停止すると、自分が世界に溶け合って、世界と一体となったって。
世界と一体となると、比較することもありません。
時間の流れも感じず、そこにはただ今の世界があるだけだって。
そして、その時、圧倒的な幸せを感じたといいます。

東田さんは、桜吹雪の美しさに吸い込まれて動けなくなるっていいます。
自閉症の子は、水中から見上げた空にくぎ付けになります。
これが右脳で感じる世界です。
ありのままの世界を理解するとはこういうことです。

それは、言葉にできないものです。
でも、言葉にできないからといって価値がないわけじゃなりません。
むしろ、言葉にならないところに、もっと大事なことがあるような気がします。

はい、今回はここまでです。
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それから、よかったらこちらの本も読んでください。
それじゃぁ、次回もおっ楽しみに!