ロボマインド・プロジェクト、第499弾!
こんにちは、ロボマインドの田方です。
今回は、この本、橘玲の新刊『DD論「解決できない問題」には理由がある』の紹介です。
DDっていうのは、どっちもどっちのことです。
対立する二つの主張には、どちらもいい分があるってことです。
DDの反対が、善悪二元論です。
自分が善で、相手が悪だと決めつけて対立するわけです。
今回も、橘節炸裂で、触れてはいけない問題にどんどん切り込んでいきます。
ウクライナから始まって、ユダヤ、ナチス、ヒロシマへと身近なところに近づいてきます。
僕が橘玲に魅かれるのは、淡々と理論的に分析するところです。
あまりにも理論的すぎて、プログラムで書けるぐらいです。
ここです。
たぶん、目指してるとこは僕に近いと思います。
僕が目指してるのは、心をプログラムで再現することです。
橘玲は、そこまでは考えてないと思いますけど、プログラムで再現可能なぐらい精緻に人の精神を分析していきます。
僕がいつかやりたいことの一つにコンピュータによる社会シミュレーションがあるんですよ。
近いものにゲーム理論があります。
ゲーム理論というのは人の意思決定を扱う数学です。
たとえば、ゲームで相手をだますと有利になるとします。
一回だけの対戦ならだました方が得です。
でも、繰り返し同じ相手と対戦するゲーム場合、お互い協力する方が最終的な利益は大きくなります。
または、前回、相手が協力的なら協力し、相手が裏切ったら裏切るというしっぺ返し戦略も有効です。
こんな風に、ゲーム理論に落とし込めば有効な戦略が数学的に証明できます。
直観的に正しいと思ってたことと、本当に有効な戦略とは違うってことが見えてきます。
ゲーム理論が興味深いのは、人の心理を数式で扱うところです。
こういう、心を理論的に分析するとかって話、大好きなんですよ。
ただ、ゲーム理論が扱うのは、損得に落とし込めるものだけです。
だから経済学で最も使われます。
でも、人間の心ってもっと複雑で、現実社会で起こってる問題は損得ばかりじゃないですよね。
おそらく最も論争が多いのはどっちが善でどっちが悪かって問題です。
人は物事を善悪で分けたがります。
なぜなら、善悪が決まれば、それ以上考えなくて済むからです。
脳は人体で最もエネルギーを消費する器官です。
考えるっていうのは、走るのと同じでものすごくエネルギーを消費します。
考えて結論が出れば、それ以上考えなくてすみます。
結論というのがどっちが善でどっちが悪かです。
そして、脳にとって善は快で悪は不快です。
だから善になりたがります。
たとえば、加害者と被害者、悪いのはどちらでしょうか?
それは、加害者ですよね。
被害者が善になります。
そう考えると、なぜ、いまだに世界中でホロコースト映画がつくられるのかわかります。
日本では毎年夏になると戦争番組が放送されますけど、必ず犠牲者の立場です。
アジアを植民地から解放したという立場の番組はあまりつくられません。
なぜかというと、この立場は加害者につながるからです。
加害者は悪です。
脳にとっては不快だからです。
脳への報酬というゲームとして考えたら、経済だけでなく、あらゆる社会問題がゲーム理論の対象となります。
そうすれば、最も有効な戦略を数学的に証明できます。
それは、直観に反する意外な戦略かもしれません。
それはどんな戦略でしょう?
これが今回のテーマです。
DD論「解決できない問題」には理由がある
それでは、始めましょう!
人は、自分の脳を快適な状態にするために様々な戦略をとります。
それでは、どんな戦略があるか、いくつか例を見ていきましょう。
人は誰しも善の側にいたいものです。
でも、それができないとしたらどうなるでしょう。
たとえば戦後ドイツです。
ナチスは完全な悪でナチスに属する限り善にはなれません。
つまり、ドイツ人でいる限り救われないんです。
そこでとった戦略が、ナチスとドイツ軍を分けることです。
どういうことかというとユダヤ人を迫害したのはナチスであってドイツ軍とは別としたんです。
そして、自分たちはドイツ軍の生き残りで、ナチスとは別としたんです。
でも、考えたらドイツ軍=ナチスです。
大戦中、ナチスでないドイツ軍なんか存在していません。
実際、ユダヤ人の手記では、強制連行した人たちのことを「ドイツ人」と呼んで、「ナチス」とは書いていません。
ところが、戦後、大量につくられたホロコースト映画では「ドイツ人」や「ドイツ軍」という言葉は徹底的に排除されて、すべて「ナチス」に言い換えられています。
実際、ナチスとドイツを混同することはポリコレに反するとして自主規制の対象となっています。
社会を作り出しているのは脳です。
脳は善悪に分けたがります。
自分が悪に属する場合、なんとか脳が不快を感じずに生きていくのにドイツ人が編み出したのがドイツとナチスを分けるという戦略です。
こう考えると、脳にとって最も心地いいのは犠牲者であり続けることと言えます。
犠牲者といっても、社会的なポジションのことです。
つまり、自分たちが犠牲者であることを主張し続けるわけです。
民族としての犠牲者を意識することでナショナリズムを維持できるとも言えます。
これを「犠牲者意識ナショナリズム」と言います。
これもゲーム理論の有効な戦略の一つになり得ますよね。
そう考えると、日本の左翼リベラルが「憲法9条」にこだわるのも理解できます。
もともと憲法9条は、アメリカの若いリベラルが原案をつくったものでした。
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という条文は、日本がふたたび武装してアメリカの脅威になることを防ぐためのものでした。
ところが、朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本を再武装させる必要が出てきたため自衛隊をつくらせたわけです。
つまり、憲法9条って、もともとはアメリカの都合でつくられただけの軽い条文です。
それを、リベラルはなぜ、これほど強固にしがみつくのか理解に苦しみます。
でも、「犠牲者意識ナショナリズム」にあてはめるとすっきり説明できます。
日本のリベラルにとって、戦争の犠牲者の立場にいることが最も快適なんです。
ところが軍隊を保有すると、旧日本軍の加害者の立場になってしまいます。
「自分たちは悪くない」というぬるま湯にい続けるためには「世界で唯一」戦争を放棄した日本国憲法を持つことが必要なんです。
さらに強力なワードが「世界で唯一」の被爆国です。
これらの犠牲者意識でリベラルは強固にまとまっているわけです。
これは、ナショナリズムの変形と言ってもいいです。
一般にナショナリズムは、共通の神話で民族をまとめようとします。
右翼ナショナリズムだと、天皇を中心とした日本神話で日本民族をまとめようとします。
「犠牲者意識ナショナリズム」が使うのは、世界で唯一の被爆国と戦争放棄という神話です。
神話と考えたら、そう簡単に「憲法9条」を放棄するわけにはいきません。
これが左翼リベラルが「憲法9条」にこだわる理由です。
いずれにしても「平和憲法」「被爆国」を声高に叫ぶことは、戦争の加害者としての立場を隠蔽し、計り知れないメリットをもたらします。
ドイツに工業都市ドレスデンがあります。
ドレスデンは戦争末期にアメリカ軍の無差別爆撃を受けて市の85%が破壊され、2万5000人の市民が亡くなりました。
それにもかかわらず、ドイツのナチズムが「絶対悪」とされたため、ドレスデンは戦後、ずっと自分たちの「犠牲」を世界に訴えることができませんでした。
そこで、ドレスデンは同じ犠牲の都市であるヒロシマと姉妹都市になろうと提案する手紙を送ったそうです。
しかも、原爆は当初、ドレスデンに投下される計画だったそうです。
ヒロシマとドレスデン、姉妹都市としてこれほどふさわしい関係はありませんよね。
ところが、当時の広島市長は、国際政治に巻き込まれるとして、この手紙に返答しなかったそうです。
たしかに、ドレスデンにとってヒロシマと組むのは大いにメリットがあります。
しかし、ヒロシマにとってドレスデンと組むことに何のメリットもありません。
なぜなら、ドレスデンにつながるということはナチスドイツにつながるということですから「犠牲者ナショナリズム」の戦略から考えてあり得ません。
そこでヒロシマが選んだのが犠牲者側のユダヤです。
つまり、「犠牲者意識ナショナリズム」の代表格のイスラエルです。
だから、先日の広島平和記念式典にもイスラエルが招待されました。
ところが、今、イスラエルはガザを侵攻してる戦争加害者です。
ウクライナに侵攻しているロシアやベラルーシは招待されていないのに、なぜ、イスラエルは招待されているのかと国内からも大きな反発を受けています。
広島県知事のスピーチでも、戦争の悲惨さを、こんな風に訴えていました。
「現代では、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる」
この間、NHKのカメラは招待されたイスラエル大使の顔をずっと捕えていました。
なぜ、戦争の加害者であるイスラエルを平和式典に招待するのか。
一見、矛盾に思えますけど、「犠牲者意識ナショナリズム」という戦略から読みとけばすっきりします。
「犠牲者意識ナショナリズム」の前提となっているのは善悪二元論です。
そして、犠牲者側に立つことで、永久に自分が善で、相手を悪とし続けることができます。
脳にとって、これほど心地いいことはありません。
でも、これで問題が解決するでしょうか?
解決しませんよね。
なぜなら、この戦略は対立を際立たせるからです。
対立は次の戦争を生み出します。
戦争が起これば、本物の犠牲者が出ます。
これじゃ意味ありません。
そこで、もっと有効な戦略を橘玲は提案します。
それは忘却です。
すなわち、過去を忘れ去ることです。
過去に向き合い、責任者を刑事訴追し、被害者に損害賠償をすることで「正義」は達成されます。
しかし、西ヨーロッパの歴史を見てみると、戦争や内戦、革命などの後に起きたのは「忘却」でした。
たとえばイタリアは、戦時中、ムッソリーニのファシズムに支配されましが、戦後、大規模な恩赦が実行されました。
それは、ファシズムへの抵抗運動でつかまった政治犯罪だけにとどまりません。
なんと、ファシズムによる犯罪も許されたんです。
その根拠は、「善良なイタリア人」はムッソリーニが勝手に始めた戦争の犠牲者ということで、全ての責任はナチズムにあるということです。
スペインではフランコ将軍による独裁体制が長く続きました。
1975年にフランコが死去した後、政治犯の恩赦を含む国王勅令法が成立しました。
その序文には、「過去の抑圧的遺産を、全てのスペイン人が友愛的調和の中に忘却すること」と記されていました。
そのあと、反フランコの政治犯だけでなく、フランコ派の犯罪も大規模な恩赦の対象となりました。
敗戦後の日本でも、GHQによる戦犯の処罰が一通り終わると、たちまち公職追放の解除が始まりました。
さらに、社会党・共産党を含む全会一致で極東軍事裁判の戦犯に対する恩赦も行われました。
日本の戦争責任の追及は不徹底だと批判されることがありますけど、そもそも、戦争責任と真摯に向き合った国など存在しません。
「犠牲者意識ナショナリズム」という戦略は、善悪二元論を永久に続けるというものです。
これを過度に行うと共同体は解体し、内戦や独裁になってしまいます。
隣人に「悪」のレッテルを張れば、その隣人はあなたのことを生涯、さらには世代を超えて恨み続けるでしょう。
「忘却」というのはそれとは別の戦略です。
実際は、忘れることなどできないと思います。
ただ、思い出さないように努力することはできます。
その方法の一つが、どっちもどっちです。
原爆を落とされた被害者としての立場だけでなくて、加害者としての立場もあると気付けば、相手を責めるのも気が引けます。
これがどっちもどっちです。
善か悪かを判定するには、まず、真実を明確にしないといけません。
でも、全ての真実を明確にすることなど不可能です。
出来ることと言えば、自分に都合のいい事実のみ取り上げることです。
その最も簡単なのが、犠牲者であることを強調することです。
簡単というのは、脳の思考の負担が軽くて、すぐに結論を出せるということです。
自分が善で、相手が悪という単純な結論は脳にとって心地いいです。
自分は絶対的な善の立場にたてるから、歯止めもなく相手を攻撃できます。
一方、どっちもどっち論は、相手だけでなく、自分の非を認めるという苦痛も伴います。
一方的に相手を攻撃することもありません。
これは脳にとって心地よいことではありません。
その代わり、お互いが、この戦略をとれば、それ以上、争いを招くことはありません。
一見、何もなかったかのように忘れて共同体を維持できます。
おそらく、ゲーム理論でシミュレーションすれば、共同体を維持する最も効率的な戦略がどっちもどっち論になると思います。
「犠牲者意識ナショナリズム」の戦略をとっているかぎり、平和な社会は訪れません。
それをシミュレーションで示して、いつか、左翼リベラルを説得しようと思っています。
はい、今回はここまでです。
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それからよかったらこちらの本も読んでください。
それじゃぁ、次回も、おっ楽しみに!
第499回 『DD論「解決できない問題」には理由がある』
