さて、前回は500回記念でしたけど、今回から通常に戻ります。
第499回では、橘玲の新刊『DD論「解決できない問題」には理由がある』を紹介しましたけど、今回はその続きです。
橘玲は論理的過ぎるって前回語りました。
それは、プログラムで再現できるぐらいです。
そこで、ゲーム理論の戦略として考えてみました。
ゲーム理論というのは、社会の意思決定をゲームとして分析する数学理論です。
相手に協力するか、裏切るかって戦略を駆使して、どう行動するのが最適かを決定するわけです。
前回取り上げたのは日本の左翼リベラルです。
リベラルが、なぜ憲法9条とかヒロシマに固執するのか、ゲーム理論の戦略として考えました。
現代社会では、加害者は悪、被害者は善です。
そんな社会で有利な立場に立とうとすれば、必然的に被害者の立場を取ろうとします。
被害者としての精神を共有して強固に結びついた集団は一種のナショナリズムです。
これが左翼リベラルの使う「犠牲者意識ナショナリズム」という戦略です。
なかなかうまい戦略です。
橘玲はさらに分析していきます。
現代社会はどんどんリベラル化していきます。
多様性社会、LGBTです。
そして、リベラルは同性婚を認める社会を求めます。
これに対して、保守は同性婚を認めません。
同性婚を認めると、国が崩壊するといいます。
でも、同性婚を認めてる国はいっぱいありますけど、同性婚を認めたから国が崩壊したって話は聞いたことがありません。
じゃぁ、なぜ、保守は同性婚が国を滅ぼすなんていうんでしょうか?
橘玲は、ここには日本特有の問題があるといいます。
それは、戸籍制度です。
戸籍制度があるのは世界中でも日本だけだって良く言います。
今まで、そのことについてあんまり考えたことがなかったんですけど、確かに、これは日本について考えるとき、ものすごく重要です。
外国には戸籍はないですけど、かといって、何も管理してないわけじゃありません。
多くの国は赤ちゃんが生まれたら出生登録をします。
戸籍との違いは、個人単位で管理することです。
つまり、戸籍の最大の特徴は家族が基本単位になっていることです。
両親、子供、配偶者などの家族を登録します。
そういった決められたフォーマットで登録するから、先祖代々、さかのぼることができます。
戸籍制度は1300年以上の歴史があって、明治時代に全国統一の「臣民簿」として再生されました。
「臣民」というのは天皇の臣民ということです。
こう考えたら、同性婚を認めると日本が崩壊するというのも、わからないでもないです。
それは戸籍制度が崩壊して、ひいては天皇を中心とする日本が崩壊しかねないということです。
こういった理論的な話を聞くと、つい、コンピュータシステムに置き換えて考えてしまうんですよ。
日本の戸籍と外国の出生登録との違いは、いってみればデータベースの構造の違いです。
その視点でみると、天皇制の意味がよくわかります。
これが今回のテーマです。
天皇制とはデータベース管理システムだ
それでは始めましょう!
戸籍に登録されることが日本人であることの条件です。
戸籍に登録されると、日本人としての義務と責任を負います。
働いて税金を納める義務とか、戦争になったら国を守るために戦うといった義務です。
一方、病気になったら治療を受けられるとか、生きていくための最低限の補償を受ける権利もあります。
戸籍には、氏名、生年月日、性別と、親子関係や婚姻関係、本籍地などが登録されます。
これらが戸籍というデータベースに登録する基本項目です。
本籍地というのは、その人の戸籍を管理する土地のことで、必ず一つ登録します。
データベースで言えばインデックスに当たります。
国を一人の人間で例えるとすると、国土が体で、国民が心と言えます。
つまり、戸籍は国の心を管理するシステムと言えます。
本籍地は一人一つ登録されます。
つまり、本籍地を介して日本の体と心が結びついているわけです。
戸籍には親子関係が登録されるので、先祖代々さかのぼった一族を確認できます。
つまり、日本の精神は、今の日本だけでなくて、先祖代々までつながっているわけです。
その日本を作り上げる基となってるのが戸籍です。
戸籍から考えると、日本とは何か、実感できますよね。
外国だと、戸籍の代わりに出生登録や婚姻登録があります。
つまり、いつどこで生まれたかとか、結婚や死亡といった個人のイベントは登録しますけど、家族まで登録しません。
つまり、国民として、先祖とか、同じ一族かどうかといった考えが希薄といえそうです。
だから、精神的にも移民を受け入れやすいんでしょう。
たとえば、アメリカは白人の国だと思っていましたけど、現在のアメリカの白人の割合は50%をわずかに超えるぐらいです。
こう考えると、その国のデータベースに登録する項目が、その国の精神を規定するといってもいいです。
日本を作り上げるデータベースが戸籍です。
戸籍は家族を重要視します。
家族を維持することが日本を維持するともいえます。
だから、かつては国民の98%が結婚していました。
結婚して子供を産むのが当たり前の社会です。
これは日本という社会を維持することを優先しているといえます。
逆に言うと、個人の思いとかが犠牲になっていたわけです。
現代の社会は、個人の思いを重視します。
一族を維持するために好きでもない人と結婚するより、結婚しない自由も選べるわけです。
自分らしく自由に生きる。
これがリベラルの考えです。
その結果、生涯未婚率が上がったり、結婚しても子供を産まないことも普通になりつつあります。
LGBTQも社会的に認められつつあります。
そして、今、問題となってきているのは同性婚です。
結婚するということは戸籍に登録するということです。
でも、戸籍には男と女しか結婚できないとなっています。
だから同性婚は認められないとなるわけです。
これに対して、同性婚を認めろというのがリベラルの考えです。
一方、保守は、そんなのを認めれば、日本が崩壊するっていいます。
「そんな極端な」って思いましたけど、同性婚を認めるということは、戸籍制度を変えるってことになります。
日本の精神を作り上げてきたのが戸籍制度だと考えると、保守の言い分もわからないではないです。
明治時代に現代の戸籍制度が確立されたとき、戸籍とは天皇の臣民の証とされました。
つまり、日本人であることと天皇制とは切っても切れない関係です。
このことからも保守が反対するのもよくわかります。
保守が守ろうとするのは、日本とか天皇制です。
それは、戸籍によってつくられた代々続く家族とか家制度です。
それを守るために個人が犠牲になっていた側面はありました。
一方、リベラルが大事にするのは自由です。
その人らしい生き方です。
これをデータベースから見ると、戸籍は登録する項目がいっぱいあります。
家族とか本籍地とか。
リベラルが求めるのは、いつ生まれて、いつ死んだかといった最低限の項目だけにしようとするものです。
そうすれば、縛りが少なくなって、だれもがもっと自由に生きやすい社会になるというわけです。
ただ、そうなると、個人と共同体の関係がが希薄になります。
最後にこのことについて考えてみます。
橘玲はリベラルの急先鋒としてフェミニズムを取り上げます。
フェミニストたちは従来の男性中心の社会に異議申し立てします。
今までの社会は、女性が虐げられてきたとして、女性を解放しようとします。
女性も、自分らしく自由に生きる権利があるというわけです。
だから女性の性産業には反対します。
性風俗など、まさに男性中心主義、女性を虐げてきた産業というわけです。
これに対して、橘玲はイギリスの社会学者キャサリン・ハキムのエロス資本論を取り上げます。
ハキムは若い女性にはエロス資本があると言います。
女性としての性的魅力のことです。
エロス資本は思春期とともに生じ、10代後半から20代前半で最大になり、30代半ばから失われます。
フェミニストは、性をお金に換える性風俗を否定しますが、ハキムはそれに異議を唱えます。
「愛」という美名のもとに風俗業を否定して、希少な資本を無料で男に提供するように強要してるというわけです。
風俗で働いてる人のなかには、エロス資本以外にマネタイズできる資本を持っていない女性が少なからずいます。
たとえば境界知能といわれるIQが70~84の人たちです。
そういう人たちのなかには、エロス資本を使って、他人や社会に認められることで自分らしく生きている人たちもいます。
それを否定する権利は誰にもないはずです。
ところがそれをやってるのがフェミニストです。
その多くが大学教授や弁護士といった強い立場の女性です。
しかも、フェミニストの多くは、既にエロス資本が失われています。
(写真略)
その視点でみてみると、弱いものを救おうとしているように見える構図が全く逆に見えてきます。
つまり、相手の持つ唯一の武器を奪って、自分の有利な戦場に引き出して、「さぁ、もっと勉強して自分らしく生きましょう」と言ってるわけです。
でも、勉強ができないから自分らしく生きられないわけです。
自分らしく輝いて生きられる唯一の場所を奪っといて、それはないんじゃないでしょうか。
さらに読み解いていきます。
保守が守ろうとする社会は戸籍を中心とした家制度です。
自由を犠牲にして、家族に個人が守られる社会です。
家を介して個人と社会が結びついて、安心できる自分の居場所が確保されるわけです。
それに対して、リベラルが目指す社会は自由です。
家制度といったルールに縛られることなく、個人が自由に生きられる社会です。
そのかわり、自分の力で社会の中の居場所を確保しないといけません。
それには能力が必要です。
その能力というのは、自分がいかに役に立つか説明できる説明能力とか言語化能力です。
逆に、能力がない者はどんどん社会の居場所がなくなります。
つまり、リベラルが目指す自由な社会だと、格差がどんどん広がるわけです。
リベラル化が進む日本の社会をみると、その通りになっていることがわかります。
結婚しなくなって、子供を産まなくなって、人口が減ってきています。
さらに引きこもりが増えて、社会に参加できない人が若い人がどんどん増えています。
その結果国民の所得も下がって、格差がどんどん広がっています。
これが自由の代償です。
自分の居場所を自分で確保できない人がいっぱいいるわけです。
以前の社会は、誰にでも居場所がありました。
それが家族とか家制度です。
ただ、いまさら、その時代に戻るのは難しいです。
これを解決する方法がないわけではないと思いますが、今回は説明する時間がないので、ポイントだけにしておきます。
リベラルが目指した自由や自分らしさを目指すって考えは間違ってないと思います。
ただ問題は、リベラルが目指した価値は、すべて言語化できるものです。
言語化できなければ存在しないも同じです。
言語化されるものだけでつくられた社会とは、左脳が作り出した社会です。
でも、人の価値とか、その人らしさって、言語化できないものもいっぱいあります。
それは右脳が感じるものです。
美しいと感じる心とか、いるだけで安心する存在であるとか。
かつての家族には、そういったものも取り込む許容量があったんでしょう。
それが、リベラル化するなかで、切り捨てられていったんでしょう。
おそらく、そういった右脳で感じていた価値観まで評価して取り込める社会になれば、もっと生きやすい社会になるんじゃないかと思います。
はい、今回はここまでです。
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それから、よかったらこちらの本も読んでください。
それじゃぁ、次回も、おっ楽しみに!
第501回 天皇制とはデータベース管理システムだ
