第542回 自由意志以前動きたいと思わない病


ロボマインド・プロジェクト、第542弾!
こんにちは、ロボマインドの田方です。

第540回で無動無言症という重い障害の話をしました。
無動無言症というのは、動くことも話すこともできない障害です。
文字通り一切体を動かすことができません。
ただ、昏睡状態にあるわけじゃなくて、目が覚めている状態と、眠っている状態の区別はあります。
起きているときは、誰かが部屋に入ってくると、目で追うことがあるそうです。
ただ、それも、意志を持って見ているわけじゃなくて、反射的に眼球が動くものを追ってるだけです。

この無動無言症から回復した人がいます。
その人に聞くと、無動無言症にあるとき、意識は完全にあったそうです。
周りで何が起きているのか、何をしゃべっているのか全て理解してたそうです。
ただ、「返事をしたいと思わない」「何もしたくない状態だった」と言います。
何かをしたいと言う欲求とか、何かしないといけないといった思いが起こらなかったから動かなかったそうです。

「えっ、どういうこと?」って思いますよね。
このチャンネルでは、今まで、さんざん自由意志に関して議論してきました。
現代科学では、人間には自由意志がないとされていますけど、僕は、その意見に真っ向から反対しています。
だって、「右手を上げたい」と思ったら、こうやって右手をあげることができるでしょ。
自由意志がない状態というのは、「右手を上げたい」と思っても右手を上げられないことでしょ。
または、「右手を上げたくない」と思っても、自分の意志に反して勝手に右手が上がることでしょ。
そんなこと経験したことがないでしょ。
だから、自由意志があると言えるんです。
それだけです。
まぁ、それ以外にも、様々な観点から議論してきたので、もう、これ以上検討する必要なんかありません。

と思っていたらこの話です。
「動きたいという欲求が生まれてこないから動かない」だそうです。
こうなったら、自由意志以前の話ですよね。
これが今回のテーマです。
自由意志以前
動きたいと思わない病
それでは始めましょう!

今回も、ラマチャンドラン博士の『脳のなかの天使』からの紹介です。

今読んでいるのが意識に関する章です。
第540回から意識、特に自分とか自己について考えています。
今回は、自分というものを三段階で説明していきます。
それも、脳のどの部分が損傷すると、自分の何が失われるのかを説明します。
そして、三段階目の究極の状態が無動無言症です。

それじゃぁ、まずは、第一段階から始めます。
第一段階は、右脳と左脳のバランスです。

脳卒中などにで右脳が損傷すると左半身が麻痺して動かなくなることがあります。
さらにその中の一部の人は、麻痺したことを認めなかったり、否定したりします。
これを疾病失認、または疾病否認といいます。
たとえば、ラマチャンドラン博士が診たノラという60歳のおばあさんの場合はこんな具合です。

「調子はどうですか?歩けますか?」
「ええ、歩けますよ」
でも実際は、彼女は一週間前から一歩も歩いていません。

「左手を動かせますか?」
「ええ、もちろんです」
「それじゃぁ、左手で私に鼻を触ってください」
でも、ノラの左手は全く動きません。

「私の鼻を触っていますか?」
「ええ」
「あなたの手が私の鼻を触っているのが見えますか?」
「ええ、ほんのもうちょっとで鼻に触れるところです」

でも、ノラの左手はさっきから1ミリも動いていません。
そこで、ラマチャンドラン博士はノラの左腕をつかんで、彼女の顔の前まで持ち上げてこう言いました。
「これは誰の手ですか?」
「私の母の手です」
「お母さんはどこにいらっしゃいますか?」
すると、ノラはあたりを見渡して「テーブルの下に隠れているんです」っていいます。

これが病態失認です。
興味深いのは、病態失認が起こるのは右脳を損傷した人に限られるということです。
左脳が損傷して病態失認が起こることはありません。
これについて考えていきます。

たとえば、陶芸を考えます。

ろくろで湯呑を作るとするでしょ。
このとき、右手と左手で挟んで微妙な形を作りますよね。
それが、突然、片方の手がなくなったら湯呑が崩れてしまいますよね。
それと同じです。
脳も、右脳と左脳の微妙なバランスで成り立っているんです。

じゃぁ、右脳と左脳で作り上げているのは何なんでしょう?
それは、自分です。
右脳がなくなって、左脳だけで自分を作ろうとすると、おかしな自分になってしまうんです。
じゃぁ、右脳と左脳は、それぞれ、どんな役割があるんでしょう。

右脳は、見たままの現実世界を扱います。
左脳は、見えるものの背後にある意味を扱います。
意味は目に見えません。
目の前に見える現実と、その背後にある意味。
この二つでバランスをとっているんです。

僕らが見て、感じて生きている世界というのは、見たままの世界と、その意味の二つで成り立っているんです。
成り立っているというか、右脳と左脳の二つの脳で、二種類の見方をしてるわけです。
そして、それは、自分にも当てはまります。
自分も、見たままの現実の自分と、意味としての自分の二つでなりたっています。

右脳が扱うのが、見たままの現実の自分です。
ノラの場合だと、左手が動かない自分です。

左脳が扱うのが、目に見えない意味としての自分です。
じゃぁ、意味としての自分って、どういうことでしょう?
それは、理想の自分というか、こうあるべき、こうにちがいないという自分です。

それは、生まれてから今までの記憶からできています。
たとえば、自由に手が動かせる自分です。
でも、ノラは、今は、左手を動かすことができません。
それを認識するのが右脳です。
その右脳が脳卒中で停止すると、現実からのフィードバックがなくなってしまいます。

ろくろで湯呑を作ってた時、突然、片方の手が消えたようなものです。
そうなったら、いびつな湯呑になってしまいますよね。
それが、ノラが作り上げた自分です。
動かない左手を突き付けられても、自分が思ってる左手とちがったら否定するんです。
だから、「これは母の手です」とか、ムチャクチャな理屈を言います。
理屈というのは意味です。
意味の担当は左脳です。
左脳だけで自分を作り上げるとこうなるんです。
自分というのは、左脳が作った理想の自分と、右脳が作った現実の自分の間にあるんです。
これが一段回目の自分です。

次は二段階目です。
二段階目で出てくるのはカプグラ症候群とコタール症候群です。
カプグラ症候群というのは、親しい人が突然、別人になったと思う症状です。
第278回でも紹介しましたけど、ある日突然、自分の母親が宇宙人に乗っ取られたといいだしたりします。
コタール症候群というのは、第303回で紹介しましたけど、自分が死んでいると感じる症状です。
カプグラ症候群の原因は、偏桃体からの情報が遮断されることにあります。
脳のなかには顔を識別する領野があります。
ここが損傷すると、誰か見分けがつかなくなります。
偏桃体は、感情や情動を生み出すところです。
ヘビをみて怖いと感じたり、親しい人を見て安心感や愛情を生み出すのも偏桃体です。
母親とか親しい人を認識すると、偏桃体から安心や愛情といった感情が生み出されて、意識は、これらをセットで感じます。
ところが、カプグラ症候群は、偏桃体と顔を認識する領野のつながりが途切れてしまっているようなんです。
だから、母親の顔をみても、親しみや愛情を感じなくて、ニセモノとか宇宙人に乗っ取られてると感じるわけです。

コタール症候群の場合は、親しい人の顔をみたときだけんでなくて、偏桃体で生み出される感情や情動を一切、感じられなくなっているそうです。
つまり、何を見ても、一切何も感じなくなっているわけです。

母親を見て何も感じなくなったら、母親を偽物とか宇宙人と感じるわけです。
それが何を見ても何も感じなくなったら、見た対象じゃなくて、見てる自分がおかしいと判断するんでしょう。
どう判断したかというと、何も感じないんだから、自分は死んでいると判断したわけです。

どうも、意識は、人間らしさとか、生きているって実感を、感情の有る無しで判断しているようです。
たしかに、何を見ても何も感じなくなったら、生きているって実感を感じないと思います。
コタール症候群になった人は、絵や音楽に対する興味も失うそうです。
絵を見たり、音楽を聴いても、美しいとか、心地よいとか何も感じないなら、そりゃ、興味がなくなりますよね。

人の行動の原動力は感情です。
あれをやりたい、これをしたいって思うのは、それに魅かれる感情が発生するからです。
それを感じなくなると、生きている実感がなくなるのもわかります。

人は、ぼんやりと考えたり、思い悩んだりしているときも、脳は何らかの活動をしています。
この時の脳状態をデフォルトモード・ネットワークといいます。
一方、何かに集中している脳状態がセントラル・エグゼクティブ・ネットワークです。
鬱というのは、デフォルトモード・ネットワークから抜け出せなくなった状態とも言われています。
行動に移せなくて、ずっと思い悩んでいるって感じです。

コタール症候群の脳を調べたところ、デフォルトモード・ネットワークの活動が極端に低下していることが分かったんです。
それも、植物人間と同じくらいだそうです。

鬱で思い悩んでいるときでも、意識は何らかの感情や情動を感じています。
このままじゃいけないって感じたら、行動しないといけません。
ただ、鬱になると行動に移せないんです。
だから苦しいんです。
でも、少なくとも生きているとは感じています。
ところが、コタール症候群になると、それすら感じないわけです。
だから、自分が死んでると感じるわけです。

生きるのに感情や情動が重要だってことがわかりますよね。
ここまでが二段階の自分です。

次は、第三段階の自分です。
第三段階は、冒頭で紹介した無動無言症です。

じゃぁ、無動無言症はどこが損傷したのでしょう。
それは、帯状回前部です。

帯状回というのは、左右の脳をつなぐ脳梁の上で帯状に位置します。
その前の部分が帯状回前部です。
ここから前頭前野につながります。
前頭前野というのは、意識があるところです。
脳のあらゆるところで処理された情報が集められて、最終的に行動を決定するのが意識です。
帯状回前部が損傷すると、偏桃体からの情報も途絶えて、感情や情動を一切感じられません。
だから、生きている実感も感じられないんでしょう。
ここまでは、コタール症候群と同じです。
でも、コタール症候群の人は普通に動いて生活しています。
じゃぁ、コタール症候群との違いは何でしょう?

じつは、帯状回前部は縁上回を含む頭頂葉からの入力も受けています。

縁上回というのは、行動するときの動作を扱う領域です。
たとえば縁上回を損傷すると、「バイバイと手を振ってください」といってもできなくなります。
ただ、じっと手をみて、どうしていいのかわからないって感じです。
縁上回は、自分が行動するイメージを司っているわけです。

つまり、縁上回からの情報が遮断されると、動いている自分というイメージを思い浮かべられなくなります。
イメージを思い浮かべられなくても、言葉の意味はわかりますよね。
「手を上げて」と言われたら、手を上げるはずです。

ただ、手を上げるイメージを持てなかったら手を上げることができません。
いや、それ以前に、手を上げるイメージを持てないということは、自分が体を持っているとすら感じられません。
つまり、自分がないんです。

「手を上げて」と言われても、まさか、それが自分に向けて言われているとすら思わないんです。
周りの音が聞こえて、言ってる言葉の意味も理解できても、何も感じないんです。
体を動かそすという考えや欲求すら生まれません。
それが無動無言症候群です。

自分とは何で出来ているかわかってきましたか?
順に整理していきます。
まずあるのが意識です。
考えることができる意識です。
ただ、考えてるだけじゃ意味がありません。
必要なのは、考えたあと行動する体です。
じゃぁ、動く体があればいいんでしょうか?

それだけじゃ足りません。
必要なのは、その体を動かせるイメージです。
それを持って、初めて、体を動かせるんです。
自分の心と体がつながるんです。
言ってみれば、体は意識と現実世界をつなぐインターフェイスです。
いくら意識があっても、現実世界とのつながりをイメージできないと、現実世界を生きているとは言えません。
実際、無動無言症の人は、周りから見れば植物人間と同じとみなされています。

さて、体を動かすイメージを持てて、動ける体を持てたとしても、まだ足りません。
それは、生きているという実感です。
生きている実感を感じるには、感情や情動、欲求が必要です。
美しいものを美しいと感じるこころです。
人は、感情に突き動かされて行動します。
そのとき、生きていると実感がもてるんです。

そうやって、自分というものが確立します。
自分は、体をもって現実世界を経験します。
気ままでの経験や記憶から、自分が出来上がります。
記憶や経験で作り上げた自分というのは左脳が作った自分です。

それに対して、今、この瞬間の現実を感じている自分もいます。
この瞬間の現実は、体を介して右脳が感じます。

二つの脳の間でバランスとをって作り上げられるのが、この、自分です。
このバランスが崩れると、病態失認になります。
動かない自分の手を母の手だといったりするわけです。

こうして見てみると、自分って、ものすごく複雑な仕組みの上で成り立っているのがわかりますよね。
自分って感じられることって、ほんと、奇跡なんですよ。
自分というのは、決して、当たり前にあるわけじゃないんです。


はい、今回はここまでです。
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それから、良かったらこちらの本も読んでください。
それじゃぁ、次回も、おっ楽しみに!