第568回 感覚遮断すると、なぜ幻覚が見えるのか?


ロボマインド・プロジェクト、第568弾!
こんにちは、ロボマインドの田方です。

アイソレーションタンクって知っていますか?
高濃度の塩水に浸かって、外界からの音や光を遮断してリラックスするそうで、海外セレブやアスリートが使ってるとかで話題になりました。

僕が興味を持ったのは、アイソレーションタンクにはいると幻覚が見えるって話を聞いたからです。
そういう怪しい話は大好きで、たとえば第387回では、南米のシャーマンの儀式で使われるアヤワスカという幻覚が見れるお茶を飲んだ話をしました。
なんでも、アヤワスカを体験するためにペルーまで行くツアーがあるそうです。
さすがにペルーまで行く気はなかったんですけど、淡路島で体験できるって聞いて行ってきました。
ただ、結果はさんざんで、気分が悪くなって、頭ガガンガンして床でうずくまっていました。
僕の周りでは、空中に向かって楽しそうに話しかけてる人がいっぱいいるカオスな状況でした。
そんな怪しい薬を使わなくても、アイソレーションタンクはかなり健康的です。
そう思って情報を集めたんですけど、そんな簡単に幻覚が見えるわけじゃなさそうなんですよ。
人が浮くぐらいなので、かなりの高濃度の塩水につかります。
そうなると、何が起こるかっていうと、ちょっとでも傷があれば、塩水が染みて、ヒリヒリして、それが気になって全然リラックスできないそうなんですよ。
僕は、蚊に刺されたら皮膚が剥けるまで掻くので、あちこち傷だらけなので、絶対無理やと思ってまだ行ってません。

アイソレーションタンクに限らず、感覚を遮断すると幻覚が見えることは昔から知られています。
1960年代には、そんな実験がかなり行われました。
目隠しをして何日過ごすとどうなるかって実験が結構行われたんですよ。
そしたら、どんな人でも、100%確実に幻覚を見ることが確認できたそうです。
いかにも、ヒッピー文化の60年代らしい実験ですけど、そのあとは、あまりそんな実験は行われていません。
ところが、最近は、fMRIとか使って科学的に幻覚が解明されてきました。
これが、今回のテーマです。
感覚遮断すると、なぜ幻覚が見えるのか?
それでは始めましょう!

今回も、オリヴァー・サックス博士の『幻覚の脳科学』からの紹介です。

1950年代初め、マギル大学のウィリアム・べクストンは、長期にわたる感覚遮断に関する初めての実験を行いました。
14人の大学生を防音の個室に数日間閉じ込めます。
学生らは、触覚を減らすために手袋をして、光と闇しか知覚できない半透明のゴーグルをかけて過ごします。
最初、みんなすることがなくて退屈して、頭の中でゲームをしたり、数を数えたりします。
そして、遅かれ早かれ、全員が幻覚を見るようになります。
幻覚は、単純なものから複雑なものに進行していきます。

最初、目を閉じたとき光の幻覚が見えます。
次に、線、それから単純な幾何学模様が見えます。
さらに黒い帽子をかぶった黄色い人の列や、ドイツ軍のヘルメットなど、人やものの幻覚を見始めます。
これらは最終的に一つの場面になります。
たとえば、袋を担いでまっしぐらに雪原を行進する隊列や、ジャングルを歩き回る動物とかです。

イメージは、最初、平らなスクリーンに映し出されるように見えていたのが、しだいに三次元になってスクリーンから飛び出して見えるそうです。
これらの幻覚は、三桁の数字の掛け算とか、複雑な作業をすると消えたそうです。

1961年に行われた別の実験では、何か想像するように言われると、被験者全員が、鮮明なイメージを想像できたそうです。
それも、これまでに経験したことがないくらい鮮明なイメージだそうです。
中には、普段、イメージを思い浮かべるのが苦手な人もいたそうですけど、即座に思い浮かべることができたそうです。
ある人は、元同僚の顔を、ほとんど写真のようにはっきりと思い出したそうです。

さて、ここまでの話で、誰でも幻覚を見ることがわかりましたよね。
前回、第567回では、目が見えなくなったり、視力が弱くなった時に幻覚が見えるシャルル・ボネ症候群を取り上げました。
シャルル・ボネ症候群は目が見えなくなった人の一部の人しか症状が現れませんけど、感覚遮断による幻覚は全員が経験します。

このことから、脳には映像というか、世界を作り出す機能があることがわかります。
これを世界構築機能と呼ぶことにします。
世界構築機能は、普段は、網膜に映る現実の光景を脳内に再現します。
これが「見る」という経験です。

それが、目隠しをするとか視覚情報が遮断されると、何も見えないのに無理やり世界を作り始めるようです。
どうやら、世界構築機能は、入力情報が少なくなると、わずかな情報から無理やり世界を作ろうとするようです。

脳内でどうやって世界を作るかについてもかなりわかってきています。
網膜からの視覚情報はまず、後頭葉の一次視覚野に送られます。

そこから頭頂葉に向かう背側視覚路と、側頭葉に向かう腹側視覚路にわかれます。
腹側視覚路は色や形を分析する経路で「何の経路」とも呼ばれています。
そして、腹側視覚路は、単純な形から徐々に複雑な形を分析してきます。
たとえば、一次視覚野には線の傾きに反応する方位円柱が並んでいます。

さらに処理が進むと、単純な形を認識する柱状構造があります。

さっき、幻覚の最初は、単純な線や図形が見えるっていいましたよね。
これは視覚処理が一番最初に行う分析といえます。

さらに進むと、陰影から立体を作り出す処理があります。
これも、最初スクリーンに映されているみたいに見えていたのが、立体として浮かび上がってきたと言っていたのに対応しますよね。
こんな風に、幻覚は脳内の視覚処理に完全に対応しているんです。

さて、ここで、意識科学について考えてみます。
20世紀の後半、あらゆる科学的問題は、あと少しで全て解明されるだろうという雰囲気がありました。
残されているのは大統一理論とかです。

そんなとき、科学は意識について何もわかっていないってことに気付いたんです。
開拓の広大なフロンティアです。
そうして20世紀の終り頃、意識科学が生まれました。

意識科学の主要なテーマの一つにクオリアです。
クオリアというのは、主観的な経験のことです。
たとえば、赤色を見たとき「赤い」と感じる経験のことです。
つまり、光の波長といった物理的な現象じゃなくて、主観が感じる「赤」がクオリアです。

僕は、最初、クオリアっていうのは主観が感じる「色」そのものを指していると思っていたんですよ。
でも、「赤のクオリア」と言った場合、対象とする色と、それを経験する主体の両方を含みます。
含むというか、一体した経験として考えます。
僕は、そこにずっと違和感を感じていたんですよ。

どういうことかというと、赤と感じているのは、この自分でしょ。
この自分のことを僕は意識と呼んでいたんですけど、どうも意識科学でいう意識というのは意識経験のことを指して、経験する自分とか主体というものを取り出したり区別したりしないみたいなんですよ。

なんでそこに引っかかるかというと、科学的に解明するっていうのは、まず、分解することから始めるじゃないですか。
どういう部品でできているかとか、最小単位は分子とか原子とかって分解していきますよね。
だから、主観的経験は、感じる対象としての「赤」と、それを感じる「主体」に分かれるでしょ。
そのうち重要なのはどっちかと言われたら、自分とか主体の方じゃないですか。

ところが、意識科学では主体といったものはあまり取り上げられないんですよ。
というか、重要視されていないんですよ。

どうも、これが正統的な科学の見方みたいなんです。
どういうことかというと、今までの科学が対象としてきたのは、客観的に観測できる物理現象の部分です。
それに対して、意識科学は、初めて、主観を対象にしたんです。
そこで、最初に取り上げたのが主観的経験です。
たとえば、「赤を感じる」と言った場合、客観的に存在する「赤」を、主観が感じるわけです。
ここまでは問題ないです。
問題はここからです。

主観を扱うといっても、科学は今まで主観を対象としてこなかったので、どうやって扱ったらいいのかわかりません。
ここまでが客観で、ここからが主観とか、どうやって分けたらいいのかわからないわけです。
20世紀の終わりに生まれた意識科学ですけど、じつは、30年間、あまり進歩してないんですよ。
これが意識科学の現状です。

さて、これ、どこが問題かわかりましたか?
まず、科学って、客観的な事実を解明する手法ですよね。
それに対して、意識とは主観です。
つまりね、そもそも意識は、科学の対象じゃないんですよ。
それを、無理やり科学の対象にしたらどうなると思います?
何も見つからないんですよ。
だから、意識科学では主観とか主体は重要視されないんです。
客観的にギリギリ言えるのは、本人が赤と感じると言っているってことだけです。

こうなるとどうなると思います?
主体が軽視されるだけならいいです。
そのうち、主体は存在しないとか幻だってなるんです。

そんなバカなって思うかもしれないですけど、科学者の多くは、自由意志は存在しないと思っています。
どういうことかというと、たとえば、今日の昼はカレーにしようか、ラーメンにしようかって決めるとするでしょ。
これって、自分の意思できめてますよね。

ところが、自由意志を否定する科学者によると、それは自分が決めたわけじゃないとなるんですよ。
無意識が決めていて、主体は、後から自分が決めたと思わされているだけだっていうんですよ。
これが科学者の主張です。

そんなアホなって思いますけど、自分が決めたってことを観測できない以上、そうとしか言えないわけです。
観測できるのは、カレーを食べると決めたって客観的な事実と、カレーを食べようという本人の主張だけです。
これらから言えるのは、脳内の自動処理でカレーを食べると決めて、後から、それを自分が決めたと思わされているだけとなるわけです。
結論。
自由意志は存在しない。
自分は幻に過ぎない。

いやぁ、こじつけにも程があるでしょ。
話が大分それてしまいましたけど、言いたいのは、伝統的な科学の手法じゃ、意識の解明は難しいってことです。
伝統的な科学の手法というのは、客観的に観測可能なものを対象とするって方法です。
そもそも主観的経験は客観的に観測できません。

それじゃぁ、ほかに方法がないかってなりますよね。
そこで、僕は、先にモデルから考えることにしました。
そして、本人が感じる主観的経験とモデルと一致すれば、そのモデルが正しいといえますよね。
そして、僕が提唱するモデルが意識の仮想世界仮説です。
意識の仮想世界仮説というのは、目で見た光景を頭の中で仮想世界として構築するというモデルです。
そして、その仮想世界を認識するのが意識、または主体です。
このモデルでは、主体は幻でなく、はっきりと存在します。
もちろん、仮想世界もはっきりと存在します。

さて、ここからが今回の話につながります。
前回からの続きですけど、目が見えなくなったり、目隠しして感覚遮断すると、幻覚が見えるようになります。
これは、脳の中に世界構築機能がある証拠と言えます。
世界構築機能は、本来、目からの視覚情報を基に世界を組み立てていました。
そして、意識や主体は何かが見えるって経験をするわけですよね。
これが、「見える」っていうことです。

ところが、視覚情報が無くなると、世界構築機能は、無理やり何かを作り出そうとします。
それが幻覚です。
いずれにせよ、世界を見たり、感じたりする意識や主体があるわけです。
もっと言えば、「見る」という主観的経験は、見る対象の世界と、「見る」経験をする主体の二つがあると言えます。
ただ、本当に二つに分かれるのかどうか、客観的証拠はありません。

さて、ここからです。
冒頭にも説明しましたけど、感覚遮断による幻覚の研究が盛んだったのは1960年前頃です。
そのあと、しばらくあまり研究されませんでしたけど、最近になって、また、新たに研究されてきました。
最近の研究は、以前と違って、fMRIという強力な観測装置があります。
そして、fMRIを使って、興味深い実験が行われました。
それは、幻覚を見るときと、想像するときで、脳のどの部分が活性化するかを観測したんです。
まずは、幻覚です。
幻覚を見るとき、活性化したのは側頭葉の腹側視覚路でした。
さっき説明したように、ここでは単純な線や幾何学図形から始まって、徐々に複雑な形、立体が分析されて世界が作られます。
こうやって作られるのが、主観が見る世界そのものです。

次に、何かを想像してもらいました。
すると、その時活性化したのは前頭前野でした。
前頭前野は、考えるときに活性化する部分です。
ところが、想像するときには側頭葉の腹側視覚路は活性化しなかったんです。
逆に、幻覚を見ているときは前頭前野は活性化しなかったんです。

想像するときって、主体から出発しますよね。
何か食べたいとか、どっか行きたいって想像するのは主体でしょ。
主体ありきです。

でも、現実世界は自分とは関係なく存在するでしょ。
現実世界を見ていないときも、現実世界はありますよね。
そう感じるってことは、脳の中に仮想世界もそうなっているってことです。

つまり、世界と主体とは独立しているわけです。
しかも、それはfMRIで客観的に観測されるんです。
被験者は、幻覚と想像を区別して経験します。
どちらも被験者にしかわからない主観的経験です。
今までは、客観的に観測不可能でした。
それが、fMRIを使って客観的に観測できたんです。
「見る」という主観的経験から、主体と対象を客観的に分離して観測できたんです。

こうなれば、主体は存在しないとか幻とか言えないでしょ。
とうぜん、自由意志もあります。
30年以上、あまり進歩しなかった意識科学が、大きく一歩前進したわけです。
それが、意識の仮想世界仮説です。

はい、今回はここまでです。
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それから、意識の仮想世界仮説に興味がある方は、よかったらこちらの本を読んでください。
それじゃぁ、次回も、おっ楽しみに!