ロボマインド・プロジェクト、第426弾
こんにちは、ロボマインドの田方です。
今回のテーマ、非常に重いです。
一言で言えば、知能と心です。
もっと言えば、知的障害者に心はあるかってことです。
オリヴァー・サックスの『妻を帽子と間違えた男』を読み続けていますけど、この本、四部構成になってます。
第一部が「失認」で、何かを認識できない障害とかです。
第420回で紹介した生まれてから手で触ってものを認識したことことがなマドレーヌとかです。
彼女は、60を過ぎてから訓練して手でものを認識できるようになりました。
第二部は「過剰」で、第420回で、記憶が持てなくて、自分も相手も誰だか分からなくなるトンプソンを紹介しました。彼は、ほんの数分の会話の中で、サックス先生のことを、幼馴染から肉屋まで10人以上に間違えました。
第三部は、「移行」です。これは、一瞬で過去に戻ったり、忘れてた殺人の記憶がよみがえるって話で、第424回で紹介しました。
そして、今回紹介するのが第四部の「純真」です。
「純真」って命名からして、人間味を感じますけど、第四部のテーマは知的障害です。
サックス先生が、知的障害の人たちの治療を担当することになったとき、憂鬱な仕事になると思って、信頼してるロシアの心理学者、ルリアに手紙を書いたそうです。
そしてら、意外にも、非常に肯定的な返事が返ってきたそうです。
そこには、「発達の遅れた人ほど、愛おしく思われる患者はいない」って書かれていたそうです。
ルリアが何が言いたかったかというと、知能と心は別だってことです。
つまり、知能が損なわれたからといって、心が消えるわけじゃないってことです。
いや、むしろ心の「質」というものは、かえって高められるそうです。
サックス博士は、最初、その意味が分からなかったそうです。
でも、最初の患者「レベッカ」が、そのことを全て教えてくれました。
これが今回のテーマです。
知的障害者に、心はあるのか?
それでは、始めましょう!
サックス博士がレベッカに最初に会ったとき、彼女は19歳でした。
でも、彼女のおばあさんは、まだ子供みたいと言います。
近所で道に迷うし、鍵でドアを開けることもできません。
鍵がどういうものか分からないみたいで、いつまでたっても鍵の使い方がわからないようでした。
左右の区別もつかなくて、洋服も、表裏、前後を間違えて着ても気づきません。
あらゆる動作がぶきっちょでぎこちなかったので、報告書には「不器用」とか「愚鈍」と書かれていました。
そして、そのことは自分でもよく分かっていました。
痛々しいほどの恥ずかしがりやで、自分はいつも笑いものにされてると思っていました。
ただ、彼女はあたたかくて情熱的な愛情を持っていました。
おばあさんのことはとても愛していました。
両親が死んで孤児となった彼女は、三歳のときからおばあさんに育てられました。
彼女は自然が好きで、公園や植物園にいくと何時間も楽しく過ごします。
それから、詩や物語も大好きでした。
だから一生懸命文字を覚えようとしましたけど、読めるようにならなくて、いつも、おばあさんに読んでくれとせがんでいました。
おばあさんも読み聞かせるのが好きで、いい声で朗読してくれるて、レベッカは夢中で聞いていました。
彼女は、日常生活では簡単な説明が理解できないのに、詩や物語の深遠な比喩や象徴は理解できました。
言葉のイメージが生み出す世界を愛して、その世界に深く入り込むことができました。
内面に豊かな心を持っていたんです。
でも、サックス先生もはじめはそのことに気づきませんでした。
しゃべる言葉はたどたどしいです。
時間や空間の把握に欠陥がありましたし、ものごとを体系的に理解することもできません。
買い物に行ってもおつりの計算ができませんし、読み書きもできません。
知能指数は60以下です。
サックス先生が、彼女に初めて会ったとき、不幸な犠牲者、または欠陥者としか思わなかったそうです。
「ほとんどの機能がダメになってるけど、皮質性の感覚機能が断片的に残ってるおかげで、なんとか話すことだけはできるかわいそうな子」
知能はピアジュの基準によると8歳児です。
これが最初に下した診断です。
ところが、次に彼女を見たとき、全く様子が違っていました。
その日は気持ちの良い春の日で、診察開始まで少し時間があったので、庭をぶらぶらしていました。
そこでレベッカを見かけたのです。
彼女はベンチに腰掛けて、芽がではじめた草花を楽しそうに眺めていました。
そこには、あのみじめな不格好さはみじんも見られませんでした。
少し微笑んでる顔は、春の日を楽しんでる乙女そのものでした。
近づくと、彼女は振り向いて、満面に笑みをうかべて、「なんて美しいんでしょ」と身振りで示しました。
それから、病気による特徴的な切れ切れのしゃべり方で、何かをつぶやきはじめました。
「春」「誕生」「めざめ」「万物のはじまり」・・・
その時、感じたインスピレーションを言葉にしてたようです。
サックス先生は、旧約聖書の「伝道の書」を思い出しました。
「すべてのことに季節があり、すべてのわざに時がある。生まるるに時、死ぬる時、植える時」
レベッカは、旧約聖書の書き手と同じインスピレーションを得ていたんです。
知的障害者としてのレベッカと、詩人としてのレベッカの二つの姿が重なって見えました。
それじゃぁ、前回の診察は、いったい何だったんでしょう。
診察室で行ったのは、神経学や心理学のテストです。
それらのテストで明らかにするのは、心を分解して、能力と欠陥に切り分けることでした。
でも、テストでは全く見えなかった彼女が庭にはいました。
庭にいた彼女は、統一感があって、落ち着いた存在でした。
彼女が素晴らしい能力を持ってることは明らかです。
でも、診察室のテストでは、そういったものは全く見えてきません。
テストで明らかにするのは欠陥だけです。
じゃぁ、テストからは感じ取れなかった彼女の本当の能力、というか魅力は何だったんでしょう。
それは、自然や想像の世界を感じ取る能力です。
それは、はっきりと見えないけど、全体を包み込むヴェールのようなものです。
繊細で、詩的で、壊れやすいです。
切り刻んで分析するようなものじゃありません。
それは、自然のなかで、ありのままをみないと見えてこないものです。
心理テストからは決して見えないものです。
じゃぁ、彼女本来の魅力を作り出してるものは何だったんでしょう。
サックス先生は、彼女が物語が好きだったことを思い出しました。
物語的な構成や調和が好きなわけです。
部分的に見れば知的障害者かもしれませんけど、彼女には、物語的な一貫した世界を作り上げる能力はあります。
読み書きとか、運動能力とか、部分に分解したら欠陥しか見えてきません。
それは、全体をまとめるストーリーのようなものが消えてるからじゃないのか。
そう思ったサックス先生は、彼女が踊ってるときのことを思い出しました。
普段はぎこちないのに、踊ってるときは滑らかな動きなんです。
ベンチに腰掛けて、自然を楽しんでる彼女を見て、サックス先生は、自分たちのアプローチは、途方もない間違いをしてるんじゃないかって気付き始めました。
心の切り刻んで分析するやり方じゃ、心の内から沸きでるその人らしさは見えてきません。
内側から沸き出て、その人を突き動かすものが、その人の本当の能力です。
レベッカの場合、そのエネルギーは、物語や演劇、音楽の流れに乗って現れるんです。
そのエネルギーを断って、表面の残った能力を切り刻んで測定しても意味ないんです。
これ、なんか、学校教育にも通じるものがありますよね。
学校のテストって、能力を分解して評価、測定するものです。
だから、テストの点数をあげることを目的にしたら、大事なものを見過ごしてしますんです。
それは、内から湧き出るその人のエネルギーです。
人それぞれ、もってるエネルギーが違います。
その人のもつエネルギーを見つけて、それをうまく伸ばすことが、本当の教育です。
今の教育って、いろんなことが満遍なく、ほどほどにできることを目指します。
そんな社会だと、偏りのある人は生きにくいわけです。
発達障害とか言われたりします。
レベッカは、それが極端に偏ってるのだと思います。
サックス先生は、診察を続けるごとに、彼女の深みのある人間性が見えてきました。
それは、彼女の内面に敬意を払うようになったからかもしれないといいます。
そりゃそうです。
どれだけ欠陥があるのか調べようとする相手に、自分の一番奥を見せるはずないですから。
彼女は、思った以上に幸せに生きていることがわかりました。
ところが、11月に、彼女が最も愛していたおばあさんが亡くなりました。
サックス先生は知らせを聞いて急いで駆け付けました。
彼女はがらんとした家にサックス先生を招き入れました。
彼女は、威厳は失っていませんでしたけど、悲しみに凍りついた表情をしていました。
彼女は、例の病気特有の切れ切れのしゃべり方で、つぶやくようにしゃべり始めました。
「泣いてるのはおばあさんのためでなく、自分のためです」
「おばあさんは私の一部だった。私の中のどこかが、おばあさんと一緒に死んでしまったの」
そう言って、身を縮めて「とても寒い」といいました。
「外が寒いからじゃないの。家の中が冬なの。死のように冷たい」
そういった彼女は知能の低さなど感じられない、悲しみにくれた一人の完全な人間でした。
しばらくして少し落ち着いてこう言いました。
「今は死んだような気がするけど、きっとまた春はめぐってくるわ」
その頃、レベッカは、治療の一環として、機能開発訓練というものを強制的に受けさせられていました。
でも、レベッカには全く効果がありませんでした。
それは、欠陥の矯正を目的としてるので、残酷なまでに作業を果たすものでした。
患者の欠陥にばかり注意を払って、残された能力は全く見ていませんでした。
人の精神形態には二種類あります。
一つは、概念的で論理的な思考です。
物事を抽象化して分析的に把握する能力です。
もう一つは、物語的なものです。
具体的で、感情的で、大きなエネルギーの流れです。
分解したら意味をなさないものです。
物語や、演劇、音楽、ダンスといったものです。
人によって得意不得意があります。
レベッカは、明らかに概念的思考能力が劣っていました。
学習しても伸びることはなくて限度があります。
でも、レベッカは物語的な能力は持っていました。
だから、詩人としての才能は伸ばせばいくらでも伸びます。
そのことはレベッカは自分でもよく分かっていて、最初に会った時から言っていました。
自分がいかに不器用で、ぎこちない動きしかできないか。
でも、音楽に合わせると、それが消えて、まとまりのあるスムーズな動きになるって。
庭で会った時、自然から受け取りインスピレーションを言葉で表現する詩人としての能力があることを示してくれました。
おばあさんが亡くなって、彼女は一段と成長したようで、はっきり意見を言うようになりました。
「こんな作業はもう嫌です。何の役にたちません。」って言います。
そして、足元の絨毯に目を落としてこういったそうです。
「私は生きる絨毯みたいなものです。縦糸は弱いけど、美しいデザインが織られた絨毯なんです」
絨毯は、縦糸に横糸を絡めて模様を織ります。
論理的な思考の部分が縦糸です。
彼女は、美しいデザインははっきりと感じ取れるんでしょう。
それが、自分らしさです。
それを使って、なんとかまとまりのある自分を維持してるんです。
それを無視して、自分にはない縦糸を使った作業だけさせられるのは耐えられないってことです。
それを、絨毯の比喩を使って伝えようとしたんです。
とっさに、そういった詩的なたとえが出てくるのは、さすがです。
それを、文字が読めないから国語能力はゼロというのは、絶対間違っていますよね。
そして、こう言います。
「私は、意味があることがしたいんです」
「私が本当に好きなのは・・・」
そういうと、もうたまらないといった様子でこういいました。
「演劇なのです」
そのあと、サックス先生は作業グループから彼女を外して、なんとかやりくりして、演劇グループに参加できるようにしました。
役を演じるとき、彼女は完全な人間になっていました。
セリフはよどみなく落ち着いてでてきて、独特の自分のスタイルも持っていました。
演劇が彼女の人生を変えました。
現在、舞台に出てる彼女を見たとしたら、だれも、彼女が知的障害だと想像できないでしょう。
はい、今回はここまでです。
おもしろかったらチャンネル登録、高評価お願いしますね。
それから、よかったらこちらの本も読んでください。
それじゃぁ、次回も、おっ楽しみに!